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【深掘り「どうする家康」】桶狭間の戦いの際、今川義元は天下を取るため上洛したのではない

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元本陣跡(豊明市)(写真:イメージマート)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は今川義元が天下を取るため上洛しようとしたのかについて、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)5月12日、義元は自ら大軍勢を率い、領国の駿府を出発した。義元が西進した理由については、①上洛説、②三河支配安定化説、③尾張制圧説、④東海地方制圧説などがある。以下、いずれの説に妥当性があるのか考えてみよう。

 ①上洛説は、もっとも古典的な説で、長らく支持されてきた説である。義元は京都に入り、室町幕府に代わって、天下を差配しようとしたというのである。ときの将軍は、足利義輝だった。とはいえ、この説には、疑問点が少なくない。

 第一に、これ以前に義元は、上洛を意識した行動が見受けられないのである。つまり、上洛するにしてはあまりに唐突であり、仮に京都に行ったとしても、円滑に幕府の代わりを務められるのか疑問である。そもそも、義元が上洛を志向したことを示す史料はない。

 ②三河支配安定化説とは、西三河は織田信長の領国の尾張国と接していたので、政情が非常に不安定だった。義元は西三河を安定させたうえで、伊勢湾の海上交通権をも掌握しようとしたという。つまり、政敵の信長を強く意識して出陣したことになろう。

 ③尾張制圧説は、文字どおり尾張国に攻め込み、織田信長との対決を目論んだというものである。信長を討滅したら、そのまま尾張国を支配しようという計画だった。

 ④東海地方制圧説はその延長線上にあり、そのまま一気に東海地方を支配下に収めようとしたという説である。

 その他にも、旧名古屋今川領奪還・回復説、鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説、三河・尾張国境の安定化説などがあるが、いずれも納得のいく明確な根拠はない。

 常識的に考えるならば、上洛説は話にならないとしても、義元が信長との対決を意識したのは間違いない。つまり、②③をミックスした説に妥当性があり、④は厳しいように思える。とはいえ、いまだに論争は続いており、今後の検討を待ちたといと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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