【深掘り「どうする家康」】歯が抜けた鳥居忠吉は倹約と窮乏生活に耐え、徳川家康を支えた
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回はイッセー尾形さんが演じる歯が抜けた鳥居忠吉について、詳しく解説することにしたい。
鳥居忠吉は渡城(愛知県岡崎市)主の忠明の子として誕生したが、生まれた年は不詳である。忠吉は元亀3年(1572)年に亡くなった際、すでに80歳を超えていたというので、誕生年は15世紀の終わり頃になろう。
イッセー尾形さんは忠吉を演じていたが、すでに当時としては高齢だったので、ドラマのように歯が抜けて話しづらかった可能性はあろう。桶狭間の戦いの頃の忠吉は、70歳前後だったと考えられる。
いつの頃からか、鳥居氏は松平氏に仕え、忠吉は松平清康(家康の祖父)の配下にあった。しかし、松平氏は、当主の清康、広忠が続けて家臣に謀殺されたので、急速化に弱体が進み、今川氏の配下に収まることで何とか命脈を保っていた。幼い家康は人質として、今川氏の本拠の駿府に住むことを余儀なくされた。
家康がいなくなった岡崎城は、城代の忠吉や阿部定吉が政務を担当していた。この間、家康の家臣は苦労に苦労を重ねたという。というのも、徴収した年貢は今川氏に多く分配され、松平氏の取り分は少なかった。それゆえ、家康の家臣は、窮乏生活を強いられたのである。
しかし、家康の家臣は貧しい生活に耐え、わずかな年貢を蓄財に回し、家康が岡崎城に戻って来た際、困らないようにしていた。三河武士は倹約して貧しい生活に耐え、そして合戦の際には、家康のために命を投げ出すことも厭わなかったといわれている。
永禄3年(1560)、今川義元は駿府を出発し、織田信長の尾張国に攻め込もうとした(桶狭間の戦い)。その際、家康も今川方として出陣した。家康が担当したのは、大高城に兵糧を運び込むことだった。しかし、義元が敗死したので、家康は今川氏と距離を置き、岡崎城に帰還した。
早速、家康が岡崎城内に入ると、忠吉はこれまで苦心惨憺して蓄財した財産を披露した。すると、家康は忠吉に感謝の言葉を述べたと伝わっている。その事実は、朝廷にまで伝わっていた。
ドラマの中での忠吉は、「歯が抜けて、何を言っているのかわからん!」というユニークな役回りだったが、実際は三河武士の鑑で、忠義の家臣だったのである。