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【深掘り「どうする家康」】歯が抜けた鳥居忠吉は倹約と窮乏生活に耐え、徳川家康を支えた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鳥居忠吉を演じるイッセー尾形さん。(写真:2018 TIFF/アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回はイッセー尾形さんが演じる歯が抜けた鳥居忠吉について、詳しく解説することにしたい。

 鳥居忠吉は渡城(愛知県岡崎市)主の忠明の子として誕生したが、生まれた年は不詳である。忠吉は元亀3年(1572)年に亡くなった際、すでに80歳を超えていたというので、誕生年は15世紀の終わり頃になろう。

 イッセー尾形さんは忠吉を演じていたが、すでに当時としては高齢だったので、ドラマのように歯が抜けて話しづらかった可能性はあろう。桶狭間の戦いの頃の忠吉は、70歳前後だったと考えられる。

 いつの頃からか、鳥居氏は松平氏に仕え、忠吉は松平清康(家康の祖父)の配下にあった。しかし、松平氏は、当主の清康、広忠が続けて家臣に謀殺されたので、急速化に弱体が進み、今川氏の配下に収まることで何とか命脈を保っていた。幼い家康は人質として、今川氏の本拠の駿府に住むことを余儀なくされた。

 家康がいなくなった岡崎城は、城代の忠吉や阿部定吉が政務を担当していた。この間、家康の家臣は苦労に苦労を重ねたという。というのも、徴収した年貢は今川氏に多く分配され、松平氏の取り分は少なかった。それゆえ、家康の家臣は、窮乏生活を強いられたのである。

 しかし、家康の家臣は貧しい生活に耐え、わずかな年貢を蓄財に回し、家康が岡崎城に戻って来た際、困らないようにしていた。三河武士は倹約して貧しい生活に耐え、そして合戦の際には、家康のために命を投げ出すことも厭わなかったといわれている。

 永禄3年(1560)、今川義元は駿府を出発し、織田信長の尾張国に攻め込もうとした(桶狭間の戦い)。その際、家康も今川方として出陣した。家康が担当したのは、大高城に兵糧を運び込むことだった。しかし、義元が敗死したので、家康は今川氏と距離を置き、岡崎城に帰還した。

 早速、家康が岡崎城内に入ると、忠吉はこれまで苦心惨憺して蓄財した財産を披露した。すると、家康は忠吉に感謝の言葉を述べたと伝わっている。その事実は、朝廷にまで伝わっていた。

 ドラマの中での忠吉は、「歯が抜けて、何を言っているのかわからん!」というユニークな役回りだったが、実際は三河武士の鑑で、忠義の家臣だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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