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【深掘り「どうする家康」】松本潤さん演じる徳川家康は、桶狭間でどう戦ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元本陣跡(名古屋市南区)(写真:イメージマート)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は徳川家康が桶狭間でどう戦ったのか、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)は、松平元康(徳川家康/以下、家康で統一)にとって重要な年となった。桶狭間の戦いで、主君と仰いでいた今川義元が戦死したからである。以下、桶狭間の戦いにおける、家康の動向を確認することにしよう。

 同年5月12日、義元は自ら大軍勢を率い、駿府を出発すると、東海道を西に向かい尾張を目指した。5月18日、義元は尾張と三河の国境付近にある沓掛城(愛知県豊明市)に入城すると、家康に先鋒を命じた。

 その緒戦、大高城(名古屋市緑区)を守る鵜殿長照は、義元に城中の兵糧が不足していることを訴えた。大高城は織田方にすっかり包囲されており、窮地に陥っていたのだ。報告を受けた義元は、ただちに兵糧の補給を家康に命令した。

 命令を受けた家康は、織田方に包囲された大高城に兵糧を運び込むのは極めて困難であると考えた。しかし、5月18日、家康は織田方の鷲津砦と丸根砦(以上、名古屋市緑区)の間を縫うように突撃し、城中に小荷駄隊を送り込むことに成功し、大高城に留まったのである。

 こうした状況下、織田方では軍議を催し、積極的に打って出るか、清洲城(愛知県清須市)に籠城すべきか、議論を戦わせていたが、明確な結論は出なかった。5月19日未明、今川方の家康と朝比奈泰朝は、織田方の丸根砦、鷲津砦に攻め込んだ。むろんこの一報は、信長のもとにももたらされた。

 すると、それまで一切動じなかった信長は、突如として幸若舞「敦盛」を舞うと、出陣の準備を整えた。そして、5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清洲城をあとにした。やがて、軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。

 大高城にいた家康は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。鷲津砦を守備する飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は、今川方によって制圧されたのである。

 その後、義元は信長の軍勢に攻め込まれ、悲惨な最期を遂げたが、その点は改めて取り上げることにしよう。なお、家康がドラマのように動揺しっぱなしだったのかは、今となっては不明である。おそらくフィクションだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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