【先取り「どうする家康」】松平家を発展させた、松平親忠・長忠父子の大活躍
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平家を発展させた松平親忠・長忠父子を取り上げることにしたい。
松平親忠(信光の子)が本拠を置いたのは、三河安城(愛知県安城市)である。親忠は信光の三男(あるいは四男)といわれており、本来なら長男があとを継ぐべきであるが、武徳が優れていたので家督を継承したという。
明応2年(1493)10月、三河の国衆・阿部満五郎らは約3千の兵を率いて、親忠を討つべく出陣した。一方の親忠も約3千(1千とも)の兵を率いて、これを迎え撃ったのである。
親忠は阿部氏らの軍勢を見事に討ち破り、西三河一帯に勢力圏を拡大した。親忠の軍功を伝える戦いであるが、一次史料の裏付けはなく、二次史料の記述しか残っていないのが惜しまれる。
文明6年(1474)、親忠は松平氏の菩提寺となる大樹寺(浄土宗。愛知県岡崎市)を建立した。「大樹」とは、中国で「将軍」を意味する言葉である。親忠は、熱心な浄土宗信者だった。
文亀元年(1501)5月、親忠は大樹寺に遺言状となる条書を与えたが、その3ヵ月後に亡くなったのである。親忠の没後、家督を継いだのが子の長親である。長忠は三男であり、嫡男は親長、次男は乗元である。
通説によると、長忠の誕生年は文明5年(1473)であり、没年は天文13(1544)とされるが、90余歳で亡くなったという説もあるので、宝徳・享徳年間(1449~55)に誕生した可能性もある。
親忠・長忠の時代は、駿河今川氏の勢力が威勢を増していた。永正3年(1506)8月、今川氏親は伊勢新九郎(北条早雲)に西三河侵攻を命じた。新九郎は一万の軍勢を率い、岩津城を攻撃した。迎え撃つ長忠の軍勢は約5百にすぎなかったが、長忠は配下の者を叱咤激励し、今川軍をよく防いだという。
同年11月、氏親は自ら軍勢を率いて、三河に侵攻した。氏親は吉田城(愛知県豊橋市)主・牧野古白と田原城(愛知県田原市)主・戸田憲光の争いに介入すると、吉田城を攻略。同城を憲光に与え、配下とした。
その後、氏親は長忠と和睦を結び、同様に支配下に組み入れた。長忠は氏親に屈したかもしれないが、これにより西三河で安定した支配を行い得たのである。なお、長忠は天文13年(1544)に没した。