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【その後の「鎌倉殿の13人」】承久の乱後、なぜ後鳥羽上皇ら三上皇は処刑でなく、流罪になったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
後鳥羽上皇を演じる尾上松也さん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。承久の乱後、後鳥羽上皇ら三上皇が流罪になった理由について、詳しく掘り下げてみよう。

 承久3年(1221)6月、承久の乱が勃発した。乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は、流罪に処せられ、仲恭天皇は廃位となった。代わりに後堀河天皇が即位し、堀河の父・後高倉法皇が院政を行う体制になった。この人事は、幕府の主導によるものだった。

 今回のテーマに則していえば、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が配流されたことが、もっとも重要になろう。承久の乱後、なぜ三上皇は流罪に処せられたのであろうか。その点を明快に記した史料はないので、以下、私なりに理由を考えてみたい。

 そもそも幕府には、朝廷を滅亡に追い込もうという考えはなかっただろう。一方で、東国における武家政権の威勢を示し、朝廷を相対化させる意思があったのは疑いない。

 そのためには、朝廷から反幕府勢力を一掃することが重要であり、それは天皇・上皇であっても例外ではなかった。それゆえ、朝廷だけに限らず、朝廷に加担した武士たちも処罰の対象とすることで、徹底して弾圧したのである。

 そして、肝心なのが人事の一新である。当然、首謀者である後鳥羽らは排除されるわけであるが、先述のとおり、次の天皇は幕府の主導により決定された。こうして朝廷人事に介入することにより、幕府の権限はいっそう高まったといえる。ただし、後鳥羽ら三上皇については、処刑が憚られたことであろうから、何らかの代わりの処罰が検討された。

 上皇らを処刑することは前代未聞のことであり、かえって世上を動揺させる可能性がある。そうなると、次なる手段としては、死罪に次ぐ重罪とされた流罪ということになる。かつて、保元の乱で敗北を喫した崇徳天皇が流罪となったという先例もある。

 つまり、天皇、上皇といえども、流罪を科すことによって幕府の強い態度を示し、のちの憂い(以後、反旗を翻す者が出ないよう)を断つことが大きな目的だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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