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【その後の「鎌倉殿の13人」】北条義時の死後に勃発した伊賀氏の変で、「のえ」はどうなった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「のえ」を演じる菊地凛子さん。(写真:Shutterstock/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。北条義時の死後に勃発した伊賀氏の変を取り上げ、北条義時の妻「のえ」がどうなったのか、詳しく掘り下げてみよう。

 北条義時が亡くなったのは、貞応3年(1224)6月13日のことである。義時の死因は諸説あるが、大河ドラマでは義時の妻「のえ」(伊賀の方)による毒殺説を採用していた。その背景にはいかなる事情があったのだろうか。

 義時が亡くなった直後の貞応3年(1224)6月から閏7月にかけて、伊賀氏の変が勃発した。変の首謀者は、「のえ」のほか、伊賀氏一族の伊賀光宗、朝行、光重である。次に変の概要を説明しよう。

 「のえ」らが義時の死後に謀反を起こした理由は、①義時の後継者として、「のえ」の実子の政村を執権に据えたかった、②「のえ」の娘婿の一条実雅を将軍に据えたかった、の2点になろう。①については、大河ドラマで「のえ」が口にしていたことである。

 「のえ」らは幕府の実力者の三浦義村を頼りにしたが、義村は結果的に裏切った。北条政子は「のえ」らの不穏な動きを事前に察知し、陰謀を未然に防いだのである。結局、「のえ」らは本懐を遂げることができなかった。

 変後、「のえ」は伊豆北条へ流罪となり、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ流された。政村は罪を問われることがなかったが、実雅はのちに越前に流された。

 「のえ」は流罪となった直後、没したと考えられている(没年は不詳)。実雅も流された越前で、安貞2年(1228)で亡くなったとされている。とはいえ、処罰された人の復帰は早かった。光宗、朝行、光重は、政子が亡くなると復帰を許された。

 伊賀氏の変が本当に計画されたのか否かは、にわかに判断できない。でっち上げという説もある。義時の死後、後家*である「のえ」が政治的な権力を持つことを恐れ、政子が先手を打った可能性もあろう。

 つまり、政子からすれば、「のえ」や一条実雅がいなくなれば事足りるのであり、ほかの面々に厳罰を加える必要がなかった。ドラマでは「のえ」が悪しざまに描かれていたが、実は悲劇の女性だったかもしれない。

*後家は現在ではあまり意味ではないが、この時代は亡き夫に代わり、子を支える重要な役割を担っていた。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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