【その後の「鎌倉殿の13人」】小池栄子さん演じる北条政子は、どんな最期を迎えたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。小池栄子さん演じる北条政子は重要な人物であるが、その最期はどのようなものだったのか、詳しく掘り下げてみよう。
小池栄子さん演じる北条政子は義時の姉で、大河ドラマの中では準主役という位置付けになろう。特に、夫の源頼朝の死後は、尼御台として幕府に君臨し続けた。その最期を追うことにしよう。
嘉禄元年(1225)5月29日、政子は病気になった。6月2日、北条泰時は政子の病の回復を祈念し、陰陽師に命じて祈禱を行わせた。むろん、医者もいたのではあるが、現代のような医療技術がなかったので、同時に神仏にすがったのである。
翌6月3日、祈禱の効果があったのか、政子の病気は回復に向かった。政子が病気であるということ、その後回復したことは、ただちに朝廷にも情報が伝わった。在京武士が下向するのではないかという風聞が流れたのだから、いかに重大事だったかがわかる。
それどころか、泰時が病気であるとの噂も流れていたのだから、朝廷が正しい情報をつかみ損ねていたかが理解されよう。同時に、東国において争乱が起きるのではないかと雑説すら流れた。政子の病気は、非常にインパクトが大きかったのだが、政子の病状は悪化した。
同年6月8日、幕府は政子の病気の平癒を祈願して、逆修を行った。逆修とは、生前に自分の死後の冥福のために行う仏事のことである。『明月記』によると、政子の病気は不食病であるという。不食病には諸説あるが、一説によると摂食障害といわれている。
その後も。政子の病状回復を願って祈禱が行われた。6月12日、幕府は陰陽道の祭祀である三万六千神祭を執り行った。しかし、政子の病状は、一向に回復することがなかった。それでも幕府の首脳陣は、神仏にすがるよりほかがなかったのである。
同年7月11日、医師による診察、陰陽師による祈禱なども効果なく、政子は亡くなったのである。政子の遺骨は、高野山(和歌山県高野町)に納められたという(『明月記』)。墓所は、寿福寺(神奈川県鎌倉市)の実朝の胴墓の隣にある。