【プレイバック「鎌倉殿の13人」】北条政子が我が子の源頼家を死に追いやった理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、最終回を迎えた。今回は、なぜ北条政子が我が子の源頼家を死に追いやったのか、その理由を詳しく掘り下げてみよう。
建久10年(1199)1月、源頼朝が急死すると、妻の北条政子は出家した。尼になった政子は、「尼御台」と称されるようになったのである(以下、政子で統一)。
政子は後家になったが、後家という言葉については説明が必要だろう。後家とは未亡人と似た言葉であり、現在では好んで使われる言葉ではない。しかし、後家という言葉は、すでに鎌倉時代に確認できる。
後家には「夫を失った妻」という意味だけではなく、若年の家長(この場合は頼家)の後見の地位という意味もある。中世を通じて、後家の政治的な影響力は大きく、政子はその先駆的な存在だったのだ。
つまり、夫の頼朝が亡くなったとはいえ、政子は後家として我が子の頼家を後見し、政治的な発言権を有していた。とはいえ、ことはそう簡単にうまく進まなかった。
頼家の乳母は比企尼の次女だったので、御家人の比企能員ら比企一族が威勢を持つようになった。能員の娘・若狭局が頼家の妻になったこともあり、その傾向はいっそう強くなった。それゆえ、政子のみならず北条一族は、比企氏を警戒する必要があった。
『吾妻鏡』は北条氏の関係者が編纂に関与したので、頼家についてあまり良いことが書かれていない。その点は多少割り引くべきかもしれないが、頼家の蛮行はあまりに多すぎるといえよう。
一例を挙げると、頼家は安達景盛の留守を狙って、その妻を寝取るという蛮行に出た。それどころか、頼家は不満を漏らした景盛に逆恨みして討とうとした。頼家の蛮行を阻止すべく、政子は体を張って景盛の討伐を止めさせたほどだ。
また、梶原景時は頼家に対し、弟の実朝を擁立する動きがあるという報告した。結果、景時は失脚し滅亡に追い込まれたものの、かえって頼家は北条家に強い不信感を抱いた可能性がある。
頼家は蹴鞠に執心し、遊興に耽っており、政治に熱心ではなかったといわれている。失政を行ったとも指摘されている。やがて、御家人の間には、頼家への不満が溜まったという。こうしたことも、頼家の立場を悪くする一因になった。
頼家と若狭局の間に一幡が誕生すると、北条家の危機感はピークに達した。一幡が頼家の有力な後継者になると、ますます比企家の威勢が増し、北条家の立場がなくなるからだ。
頼家の蛮行については、どこまで信用してよいのかわからない。しかし、頼家が専制的な性格を強めると、同時に背後にいる比企一族の権力が大きくなるので、北条一族にとって脅威だった。
政子はそうした点を考慮し、徐々に頼家を見限るようになったのだろう。そして、ついに見殺しにしたのである。