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【深掘り「鎌倉殿の13人」】承久の乱で後鳥羽上皇に味方し、悲惨な末路をたどった武士たち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
後鳥羽上皇を演じる尾上松也さん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回。承久の乱の場面は呆気なかったが、後鳥羽上皇に味方し、悲惨な末路をたどった武士がいた。その点について、詳しく掘り下げてみよう。

 承久3年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時追討の兵を挙げたが、誠にあっけなく敗れてしまった。幕府軍は約19万の兵で、北陸道、東山道、東海道を進軍し、朝廷方を圧倒的な軍事力でねじ伏せた。これには、後鳥羽も驚いたに違いない。

 朝廷方は勝算があったから、義時追討の兵を挙げたのだろう。そもそも朝廷には権威があったのだから、義時追討の宣旨を下せば、すぐに幕府は動揺し、降参するとでも思っていたのかもしれない。もし仮に戦いになっても、備えは忘れていなかった。

 朝廷は直属の強力な軍隊を持っていなかったので、西面の武士、西国の御家人、在京御家人を味方とし、幕府に対抗しようとした。味方した面々の立場はさまざまで、義時に反感を抱いた者もいただろうが、単純に朝廷の命に応じた者もいたと考えられる。

 朝廷方で中心となった武士は、大内惟信、藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱、山田重忠といった面々である。しかし、先述のとおり幕府軍は強力で、彼らは太刀打ちできず敗北を喫した。

 負けた朝廷方の武士は、ただちに京都に引き返し、後鳥羽に助けを求めた。ところが、後鳥羽は御所の門を閉じて追い返した。後鳥羽の心境は想像によるしかないが、彼らを御所に入れないことで、自身が義時追討に加担していなかったとでもしたかったのだろうか。

 その後、後鳥羽は義時追討の宣旨を取り消し、逆に藤原秀康らの捕縛を命じる宣旨を発給した。驚いた秀康らは東寺(京都市南区)に籠り、最後の抵抗を試みたが、三浦義村の率いる軍勢に敗れた。

 その結果、秀康らは敗走したが、秀康は河内国で捕えられ、弟の秀澄とともに京都で斬られた。胤義は子の胤連、兼義とともに木嶋(京都市右京区)で自害した。山田重忠は、般若寺山(京都市右京区)で自害した。佐々木広綱も悲惨な最期を遂げ、大内惟信は流罪となった。

 朝廷に与した面々がいかなる理由で後鳥羽に味方しようと考えたのかは、今となっては不明な点が多い。少なくとも勝てると思ったのだろうが、それは大誤算だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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