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【深掘り「鎌倉殿の13人」】三浦義村は北条義時を殺して、執権になりたかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三浦義村を演じる山本耕史さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回。北条義時は承久の乱で後鳥羽上皇に勝利したが、ドラマでは三浦義村が「のえ」と画策して、義村を死に追いやろうとした。その点を詳しく掘り下げてみよう。

 承久3年(1221)に承久の乱が勃発すると、北条義時と姉の政子は御家人の圧倒的な支持を受け、朝廷軍に圧勝した。とはいえ、三浦義村は複雑な心境だったに違いない。義村の弟の胤義は朝廷軍に属して、敗北。無念にも自害して果てたからだ。

 元仁元年(1224)6月13日、ついに義時は亡くなった。しかし、その死因については不明な点が多々あり、史料によって記述が異なっている。「長らく霍乱などの病に伏せていた」、「急死だった」、「小侍に殺害された」などの説がある。

 なかでも毒殺は、『明月記』に書かれているものだが、義時の死の直後の記録ではない。義時の妻「のえ」が義時に毒を盛って殺害したというのだ。今回の大河ドラマでは、この毒殺説を採用し、独自にアレンジを加えたものになっている。

 当時、青酸カリのような一発で人を殺せる劇薬はなかったので、「のえ」は京都から取り寄せた薬と称して、病気の義時に飲ませていた。つまり、弱毒を長期間服用させることで、徐々に死に至らしめようとしたのだ。そして、その毒をもたらしたのは義村になっていた。

 「のえ」は義時の次の執権が泰時になるのを阻止し、自ら腹を痛めて生んだ子の政村を据えようと考えていた。一方の義村は、これまでも義時の排除を目論んできたが、ここにきて「のえ」と協力して義時を殺し、自らが執権の座に就こうとしたのである。

 むろん、この話はあくまでドラマ上のものであるが、正しいといえるのだろうか。そもそも「のえ」は、ほとんど史料にあらわれないので、毒殺をしたのか否かは不明である。ましてや、義村が毒を調達したとの記録があるわけでもない。

 一方の義村は、弟の胤義から朝廷に与するよう書状が送られてきたが、それを義時に持参して、幕府に忠誠を誓ったほどだ。のちのことだが、貞応3年(1224)に勃発した伊賀氏の変(「のえ」と伊賀一族のクーデター)で、義村が関与したというが疑わしい。

 いずれにしても、ドラマの内容はフィクションであるが、史実としては無理筋で、認めがたいということになろう。義村が執権になるには、あまりにハードルが高すぎるように思える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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