【深掘り「鎌倉殿の13人」】後鳥羽上皇が承久の乱で幕府軍に敗北した、本当の理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回。後鳥羽上皇は北条義時の追討を実行に移したが、敗北。なぜ後鳥羽が敗北したのか、詳しく掘り下げてみよう。
承久3年(1221)、ついに後鳥羽は義時の追討を実行に移した。しかし、朝廷は軍事組織を保有しているわけではなく、幕府が圧倒的に有利という厳しい状況にあった。
とはいえ、朝廷は決して無力ではなく、在京御家人と西面の武士を軍事力として動員しえた。また、追討の宣旨を出せば、義時は朝敵になるのだから、その効果は大きいと予想した。それゆえ、後鳥羽は義時追討を決意したと考えられる。
在京御家人は、①京都守護や大番役を務める御家人、②上皇に奉仕する源氏一門の御家人、③西国の御家人のうち在京していた者である。彼らは幕府にも仕えつつ、後鳥羽に奉公するという両属性があった。
後鳥羽に味方した御家人の中には、北条氏を快く思っていなかったので、味方になった者もいたのかもしれない。一方で、在京御家人の職務として、彼らがごく自然に朝廷軍に編成された可能性もあった。むろん、朝廷の権威を恐れたという側面もあろう。
西面の武士とは、幕府の政争に敗れた者、幕府の領域圏ではない西国の有力武士を院の西面に伺候させた組織である。加えて後鳥羽は、配下の藤原秀康に対して、西国に広く軍勢を求めるよう命じた。
目玉だったのは、後鳥羽が秀康を通じて、在京中の三浦胤義(義村の弟)に声を掛けたことである。胤義と義村が後鳥羽に味方すれば、東国の武士も幕府から離反すると考え、後鳥羽は「味方になれば、義村を日本国の惣追捕使にしよう」と約束した。
結局、義村は後鳥羽に味方しないどころか、後鳥羽の書状を義時のもとに持参し、幕府への忠節を誓った。これは、後鳥羽にとって大誤算だった。もう一つの大誤算は、北条政子が御家人を前に大演説し、上洛する軍勢を編成したことだった。
結果、幕府は北陸道、東山道、東海道の3つのルートから、約19万という軍勢を上洛させた。これには在京御家人も西面の武士も圧倒され、あっけなく敗北した。後鳥羽にとって、すべてが大誤算だったのだ。