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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時討伐の宣旨を鎌倉にもたらした押松丸は、平知康と同一人物じゃない

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平知康を演じる矢柴俊博さん(左から2人目)。(写真:Motoo Naka/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎え、ついに後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発給した。その宣旨を鎌倉にもたらした押松丸は、平知康と同一人物なのか、詳しく掘り下げてみよう。

 承久3年(1221)5月15日、ついに後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発給した。その宣旨を鎌倉に持って行ったのは、押松丸である。押松丸は藤原秀康の配下だったが、生没年どころかその生涯すら不詳である。

 押松丸は秀康の命を受けて、三浦胤義(義村の弟)の密使とともに、鎌倉に義時追討の宣旨を東国の御家人に持参しようとした。しかし、運悪く、押松丸は葛西谷で捕らえられたのである。以後、押松丸がどうなったのかわからない。

 ドラマの中では、矢柴俊博さんが押松丸を演じていた。そして、自らが平知康であることを告白した。捕えた御家人らもその言葉を聞いて、納得していた様子だった。平知康と押松丸は、本当に同一人物だったのだろうか。

 平知康は、知親の子として誕生した。生年不詳。知康は後白河天皇に北面の武士として仕え、検非違使も務めていた。寿永2年(1183)7月、木曽義仲が入京すると、配下の将兵が洛中で狼藉に及んだので、知康は義仲に将兵の狼藉を止めさせるよう通告した。

 同年9月、義仲は法住殿に攻め込み、後白河を幽閉した。知康は防戦したが敗北し、ついに官を解かれた。その後、義仲は源義経・範頼兄弟に討たれたので、知康は復帰を果たした。

 知康は蹴鞠の技術に優れており、豊かな教養を兼ね備え、武人としても優れていた。それゆえ源頼朝は、子の頼家の側近として、知康を登用したと考えられる。建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなって以降も、知康は頼家に仕えた。

 しかし、建仁3年(1203)に頼家が伊豆の修善寺に幽閉されると、知康は役割を終えて京都に戻った。以降の知康の動向は不明なので、ドラマの演出として、知康と押松丸を同一人物としたのだろう。

 知康と押松丸が同一人物であることを示す一次史料はない。それなりの地位にあった知康が幼名の押松丸などと名前を変えて、使者の役割を果たしたとは考えられず、まったくのフィクションなのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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