【深掘り「鎌倉殿の13人」】大内裏の焼失は、承久の乱の引き金になったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎え、源頼茂の討伐に際して、大内裏が焼失してしまった。大内裏焼失がなぜ承久の乱の引き金になったのか、詳しく掘り下げてみよう。
承久元年(1219)7月、後鳥羽上皇は在京御家人に命じて、源頼茂の討伐に向かわせた。その理由については諸説あるが、頼茂が後鳥羽の命に応じなかったためと言われている。真相は闇の中であるが、頼茂には何らかの落ち度があったのだろう。
頼茂は在京御家人とよく戦ったが、最終的に自害して果てた。その際、頼茂が火を放ったので、大内裏(天皇居所)が焼け落ちるという不測の事態が発生したのである。むろん、放置するわけにはいかないので、ただちに再建することになった。
しかし、再建には多額の費用が掛かるので、とても朝廷の財政だけでは賄うことができなかった。そこで、後鳥羽は多方面から支援を得るため、公家、寺社、そして武家へも金銭的な援助を求めた。朝廷にとっては、残された最後の方法だったのである。
その方法は、造内裏役を一国平均役として、全国に賦課するものだった。現代でいえば、臨時に税を徴収されるようなものだから、反対したり、協力しなかったりする者が続出したのである。このことは、朝廷にとって大誤算であり、頭を抱える事態となった。
結局、大内裏の再建は、このまま中絶したのか、あるいは再建が成ったのか不明である。いずれにしても、後鳥羽は恥をかかされたような形になったので、とりわけ幕府に対して強い不満を抱いたといわれている。この一事が承久の乱の原因の一つとも指摘されている。
その後、義時追討の意志を強く固めた後鳥羽は、その計画の実現に動いた。後鳥羽に賛意を示したのは、順徳天皇である。順徳は挙兵の直前に天皇位を仲恭天皇に譲り、自らは上皇となって計画に加担した。しかし、全体的に見ると、おおむね朝廷の面々は消極的だった。
近衛基通・家実といった朝廷の中枢の人々、後土御門上皇は消極的、ないしは反対の意を示した。家実は摂政を務めていたが、反対の意を示したので、九条道家に摂政の座を譲ることになった。こうして後鳥羽は、義時に戦いを挑んだのである。