【深掘り「鎌倉殿の13人」】後鳥羽上皇の目的が討幕ではなく、北条義時の討伐だった理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じる宣旨を下した。義時の追討を命じた経緯について、詳しく掘り下げてみよう。
そもそも幕府と朝廷は水魚の交わりのごとく、互いを必要とする存在だった。しかし、源頼朝の死後、幕府は御家人間の争いが絶えず、頼朝の後継者の頼家、実朝も非業の死を遂げ、体制はガタガタだった。
その状況下で台頭したのが北条義時と姉の政子である。実朝の死後、幕府は京都から「三寅」を招いて新将軍に据え、政子が後見の立場となり、義時が執権として幕政としてサポートした。
しかし、義時は後鳥羽上皇から所領の地頭の交代を求められたが、拒否。以後、ほかの問題も相まって、後鳥羽は義時を疎んじるようになった。こうして、両者の対立的な様相が深まっていったのである。
承久2年(1220)の暮れ頃、後鳥羽は順徳天皇や院の近臣と語らい、義時の追討を決意したといわれている。挙兵に際しては、武力が問題となるが、北面の武士や西国の御家人などのあてがあった。
翌年5月15日、後鳥羽は北条義時、政子の追討を命じる宣旨を発した。この院宣については、『公卿補任』や『吾妻鏡』などに「義時、政子の追討の宣旨が発せられた」という記録が残っている。ほかに、宣旨の写しも伝わっている。
ここで問題となるのは、後鳥羽は本当に討幕の意思があったのかということである。というのも、先に示した院宣を読むと、ターゲットは義時や政子であって、幕府の壊滅を意図していたのか疑問が残る。
鎌倉幕府の開幕後、朝廷は幕府と協調し、諸権限を与えてきた。同時に、関東の豪族らを抑えるには、幕府の力が必要だった。つまり、政治を行ううえで、幕府の存在は必要不可欠になっていたといえる。
となると、後鳥羽の目的は討幕ではなく、大きな力を持った義時と政子を幕政から排除し、摂家将軍の「三寅」を中心とした新しい秩序の構築を願ったと考えられる。つまり、幕府から義時と政子がいなくなれば事足りたのだ。
その際、東国の御家人には義時に不満のある者もいただろうから、彼らが朝廷に加わることも予想していたに違いない。なかでも後鳥羽が期待を寄せていたのは、三浦義村だった。なお、乱の顛末については、改めて取り上げることにしよう。