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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時と「のえ」の子・政村は、執権の座を狙っていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条義時を演じる小栗旬さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時と「のえ」の子・政村が登場した。政村は執権の座を狙っていたというが、この点について詳しく掘り下げてみよう。

 北条義時の後妻「のえ」(伊賀局、伊賀の方とも)は、御家人の伊賀朝光の娘だった。伊賀一族は「のえ」が義時の妻になることで、立場が良くなった。光季(「のえ」の兄弟)は、京都守護になったほどである。ドラマの中で、「のえ」が不審な行動をするのには理由があった。

 その理由とは、義時の後継者問題である。順当に行けば、泰時が有力だった。義時の没後、泰時は3代執権に就任した。泰時は鎌倉幕府の基本法の「御成敗式目」を制定し、善政を行ったので、非常に高い評価を受けた。

 義時と「のえ」との間に誕生したのは、ドラマで初登場の政村だった。元久2年(1205)の誕生なので、この時点では数え年で15歳の少年だった。2人にとっては長男だったが、実質的には庶子の扱いを受けた。「のえ」が親心として、我が子この執権就任を望むことは、十分にあり得る話である。

 とはいえ、政村は別に冷遇されたわけではない。歌人としても優れ、有能な人物と評価されており、泰時に勝るとも劣らない人物だった。のちに、政村は評定衆、引付頭人、連署という要職を歴任し、7代目の執権に就任したのが、厚遇された証だろう。

 政村が元服した際、三浦義村が烏帽子親を務め、義村の「村」字を与え、政村と名乗らせたことにも注意すべきだろう。烏帽子親はもっとも信頼する人に依頼するだけでなく、生涯にわたって烏帽子子に影響力を持った。ドラマで、「のえ」と義村が急接近した理由でもある。

 義時の死後の貞応3年(1224)6月から閏7月にかけて、伊賀氏の変が勃発した。「のえ」は伊賀一族とともに謀反を起こし、娘婿の一条実雅を征夷大将軍の座に就けるだけでなく、政村を後継の執権に据えようとしたのである。幕府に対するクーデターだ。

 「のえ」らの陰謀はすぐに露見し、変後、「のえ」は伊賀一族の面々は流罪となった。執権の座には、当初の予定どおり泰時が就いたのである。

 変は、でっち上げとも指摘されている。義時の死後、幕府は「のえ」が後妻として専横を振るのを阻止するため、「のえ」らに「謀反の意あり」と罪をでっち上げ、流罪にした可能性があるという。ただ、確固たる証拠はなく、真相は闇の中である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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