【深掘り「鎌倉殿の13人」】後鳥羽上皇は、なぜ親王将軍の派遣を拒否したのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝死後の新将軍として、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとしたが、失敗した。その点について詳しく掘り下げてみよう。
建保7年(1219)1月に源実朝が公暁に殺され、幕府は後継者問題で頭を悩ませた。そこで、幕府は後鳥羽上皇の皇子を新将軍として迎えようとしたが、実は今に始まった問題ではなかった。以前から準備は進めていた。
建保6年(1218)、政子は異母弟の時房とともに熊野詣に出掛けた。これは単に熊野詣が目的ではなく、後鳥羽の皇子を親王将軍として迎えるため、交渉を進めるためだった。
政子は卿二位兼子と面会し、後鳥羽の子の六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁のどちらかを実朝の後継者として、幕府に迎えることについて了承を得ることができた。これが親王将軍の構想である。
同時に、親王将軍を迎えることは、実朝自身の意向だったと指摘されている。幕府が永続性を保つためには、権威ある朝廷の後ろ盾が必要だと考えたのだろう。
ところで、実朝暗殺の報告を受けた朝廷は、驚きと不安という混乱した状況のなかで、幕府が自壊することを願った節がある。
一方の幕府は、実朝死後の混乱を克服し、早急に態勢を整えねばならなかった。そのためには、かねて構想していた親王将軍を実現する必要があったのだ。
そこで同年2月、義時はすぐに二階堂行光を使者として京都に派遣し、親王将軍の実現に動いた。万全を期すため、京都の治安維持という名目で、伊賀光季(義時の妻「のえ」の兄)を京都に派遣した。むろん、光季には、朝廷の情報収集と監視という役割があったに違いない。
しかし、朝廷は以前とは異なり、親王将軍の実現には後ろ向きになっていた。実朝が亡くなったので、もはや幕府の支配体制は動揺しており、その必要性があるのか躊躇していた。そして、後鳥羽は親王の東下を保留し、すぐに東下させないと回答したのである。
親王将軍は、実朝が暗殺される以前に実行されるべきだった。しかし、実朝の死により、幕府は大いに動揺していたので、後鳥羽は態度を硬化させて、親王の東下に難色を示したのである。