【深掘り「鎌倉殿の13人」】後鳥羽上皇に「肩ドン」した、瀬戸康史さん演じる北条時房とは何者なのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条時房が後鳥羽上皇の肩を押す仕草がウケていた。時房とはいかなる人物なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時房とは
北条時房が時政の子として誕生したのは、安元元年(1175)のことである。北条政子・義時の異母弟であるが、母の名はわかっていない。母の身分が低かったからだろうか。
文治5年(1189)、時房は元服して「時連」と名乗った。「時連」の「連」の字は、烏帽子親を務めた三浦義連の「連」を与えられたものだろう(以下も「時房」で統一)。
源頼朝の死後、子の頼家が2代将軍になると、時房は蹴鞠が上手だったこともあり、その身辺に仕えるようになった。それは、過去のドラマのとおりである。頼家と時房との関係については、ユニークな逸話がある。
平知康は、「時連」の「連」の字が銭の単位の貫を思わせると時房に告げた。これでは、イメージが悪い。その噂を耳にした頼家は、時房に改名を提案し、「時連」から改めたというのだ。当時の人は、名前を変えることに対して、あまり躊躇することはなかった。
■頼家失脚後の時房
建仁3年(1203)、比企能員の変で頼家が失脚した際、時房は頼家に付き従っていたにもかかわらず、罰せられることがなかった。それゆえ、時房は比企方の情勢を探るために送り込まれたともいわれている。逆に、北条一門で重用されるようになったのである。
その後の時房は畠山重忠の乱でも軍功を挙げ、続く牧氏の変で父の時政が追放されると、遠江守、駿河守、武蔵守を歴任し、政子・義時姉弟を支えた。受領になることは、大変な栄誉であった。続く和田合戦でも、時房は北条方を勝利に導く活躍をした。
こうして、時房は北条一門で重きを置かれ、幕府内にも確固たる地位を築いたのである。そして、義時の死後は子の泰時を支え、北条一門を守り立てた。
■まとめ
ドラマの中の時房は、ユニークなキャラクターとして描かれているが、実際はそうではなかった。六波羅探題南方、連署(執権の補佐役)を担ったのは、その証ともなろう。