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【深掘り「鎌倉殿の13人」】裸だけじゃない。市原隼人さん演じる八田知家の華麗なる経歴とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
八田知家を演じる市原隼人さん。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市原隼人さん演じる八田知家の裸が話題になっていた。知家の専売特許は裸だけではないので、詳しく掘り下げてみよう。

■八田知家とは

 知家は下野の名族宇都宮氏の流れを汲み、宗綱の四男として誕生した(生年は康治元年(1142)、天養元年(1144)の2説ある)。知家は源義朝(頼朝の父)の子であるともいわれており、その出生には謎が多い。

 治承4年(1180)、源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、頼朝のもとに馳せ参じた。同年、知家は頼朝から下野国茂木郡の地頭職を安堵されるなど、厚い信任を得ることになった。これは、義朝の子であるとの説に関係あるのだろうか。

 寿永2年(1183)には野木宮合戦に出陣し、小山朝政とともに志太義広(頼朝の叔父)を討伐した。元暦元年(1184)、平家追討の動きが本格化すると、知家は源範頼(頼朝の弟)に従って出陣したのである。

 しかし、知家は迂闊なことに、出陣の途中、頼朝に無断で右衛門尉に任官した。頼朝に断りなく任官されることはご法度だった。これに頼朝が激怒したのは有名な話である。翌年、激高した頼朝は、「駄馬が途中で道草を食うようなものだ」と罵った。知家は窮地に陥った。

 文治5年(1189)の奥州征伐の際、知家は千葉常胤とともに東海道大将軍に任じられ、藤原氏討伐で大いに軍功を挙げた。これにより、知家の信頼は回復したといえよう。

■源頼朝死後の知家

 建久10年(1199)に頼朝が没すると、知家は13人の合議制の1人に加えられた。13人の合議制は後継者の源頼家を補佐する職なので、いかに知家が重用されていたかがわかる。

 建仁3年(1203)、阿野全成が謀反の疑いで捕らえられ、下野国の宇都宮氏に身柄を預けられていた。頼家の命を受けた知家は、全成を殺害した。このとき知家は60歳前後だったが、衰えはなかったのである。

■まとめ

 のちに知家は出家して、尊念と号した。ドラマのなかで引退を示唆したのは、このことであろう。承久の乱の際には、幕府方に味方して、鎌倉の留守を預かった。知家は裸だけでなく、その能力は高かったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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