【深掘り「鎌倉殿の13人」】ドラマのラスト。北条義時はどういう死に方をするのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時の権力への執着ぶりが見事に描かれているが、一方でその死に方が注目されている。義時はどのような死に方をするのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条義時の最期
元仁元年(1224)6月13日、鎌倉幕府で執権を長らく務めた北条義時が没した。享年63。当時としては、比較的長命だったといえるだろう。
義時の死については、『吾妻鏡』(鎌倉幕府の正史)によると、暑気あたりと脚気で長らく体調不良で死に至ったと書かれている。老齢だった義時は、暑さに伴う疲労と病で弱っていたということになろう。
二次史料については、また異なった事実を記している。『百錬抄』は義時は急死だったと記しているが、『吾妻鏡』を見る限りは、たしかに2日間ほどの闘病生活で亡くなっている。
『保暦間記』は義時が近習の小侍に殺害されたと書いているが、確証があるわけではない。これが事実ならば暗殺であるが、果たしていかがなものだろうか。
■伊賀の方
藤原定家の日記『明月記』は、義時の妻・伊賀の方が毒殺したことを匂わせている。義時の死の翌月、伊賀氏の変が勃発した。伊賀の方は兄の光宗とともに、娘婿の一条実雅を新将軍に、子の政村を執権に就けようとした。
しかし、事態を察した北条政子は、泰時を執権にすることで危機を回避した。結果、伊賀の方、光宗、実雅は流罪となり、事件は終息したのである。
ところが、『明月記』が記す義時の死因は、承久の乱で朝廷に与した尊長(義時の娘婿の一条実雅の実兄)なる人物の自白だけに、そのまま鵜呑みにしてよいものか、さらに検討を要しよう。
■まとめ
これだけの説があるということは、本当に義時の死因がわからなかったのか、その死に不都合なことがあったと憶測するところである。
とはいえ、大河ドラマはフィクションなので、義時の死をどのように描くのか、今から興味津々である。