【深掘り「鎌倉殿の13人」】誰も知らなかった、北条時政のひっそりとした最期
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鎌倉から追放された北条時政の姿があった。時政は伊豆でどのような死に方をしたのか、詳しく掘り下げてみよう。
■改めて北条時政とは
北条時政が誕生したのは、保延4年(1138)のことである。父は時方といわれているが(時兼とも)、その詳しい生涯は不明である。
北条氏は桓武平氏の流れを汲むといわれているが、こちらも確固たる根拠がない。しかし、源頼朝の挙兵を後押ししたのだから、伊豆の小豪族などと評価するのは不当なのかもしれない。
時政が鎌倉幕府内で大きな発言権を持ったのは、頼朝の舅だったからである(娘の政子は頼朝の妻)。そのような事情から、時政は京都守護を務めるなどし、確固たる地位を築いたのである。
■御家人の討滅と伊豆への追放
頼朝死後、時政は威勢を高めるため、次々とライバルとなる御家人を討滅した。梶原景時、比企能員は、その代表といえるであろう。能員は源頼家を擁していたので、もっとも強力な存在だった。
能員を打倒した時政は頼家を伊豆に追放し、代わりの弟の実朝を新将軍に擁立することで、自らの権力基盤を形成した。我が世の春を謳歌したのである。
しかし、無実の畠山重忠を討ったこと、続く牧氏事件で実朝の暗殺、平賀朝雅を新将軍に擁立しようと画策したことは、御家人どころか、子の義時や政子の大きな反発を招いた。これにより、時政は失脚し、伊豆に流されたのである。
■まとめ
伊豆に蟄居した時政の動静については、詳しいことがわかっていない。承元2年(1208)11月、北条氏の氏寺である願成就院に塔婆を建てて、これを供養したという記事が目立つくらいである。
時政が亡くなったのは、建保3年(1215)1月6日のことである。時政の死の一報をもたらしたのは、伊豆からの飛脚だった。腫物が原因で、伊豆国北条郡で亡くなったという。
ほかに残るのは後世の記録ばかりで、記事はあっさりしたものばかりである。一時代を築いた時政にしては、あまりに寂しい最期だった。