【深掘り「鎌倉殿の13人」】実はやる気満々だった。後鳥羽上皇が政治に示した強い意欲
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、後鳥羽上皇の強い存在感が注目される。後鳥羽上皇は大変政治的能力が高かったといわれているが、その点について詳しく掘り下げてみよう。
■『承久記』に描かれた後鳥羽上皇
承久の乱の顛末を記した軍記物語として、『承久記』がある。同書における北条義時の評価は、朝廷に弓を引いたとはいえ、その政治的な手腕や人柄は高い評価が与えられている。
一方、後鳥羽上皇は政治を蔑ろにして武芸を好むとしたうえで、その好戦的な態度を暗に批判している。後鳥羽が普通に政治を行っていれば、承久の乱は起こらなかったとでも言いたげである。
後鳥羽は諸芸に優れ、特に蹴鞠には才能を発揮し、名手と称えられた。武芸にも長じており、検非違使に代わって、強盗を捕らえるために指揮を執ったといわれている。後鳥羽は、天皇(上皇)らしからぬ人物と評価されたのだ。
■豊かな政治的才能
建久9年(1198)、後鳥羽は皇位を譲って上皇になると、政治に強い意欲を示した。記録所(朝廷の訴訟処理を担当した役所)の再興に加えて、評定会議に力を入れたことから明らかだろう。
承元4年(1210)9月に彗星があらわれると、後鳥羽は順徳天皇を皇位につけた。そして、代替わりの徳政を行ったのである。彗星は不吉なものだったので、徳政により民心をとらえようとしたのである。
また、当時は寺社勢力が武装をして嗷訴に及ぶことがしばしばあった。そこで、悪僧や神人の乱暴行為を禁止し、武器を帯びることも禁じた。断固たる態度を示したのである。
朝廷への訴訟に関しても、縁故を頼って法廷に持ち込むことを禁止し、窓口を官・蔵人を通すように一本化した。これにより、訴訟をまっとうな制度に改めたのである。
■まとめ
後鳥羽の政治的な姿勢をどう評価するのはか難しいが、少なくとも善政を行うべく意欲的だったのはたしかである。
『承久記』における後鳥羽の評価は一面的なものに過ぎず、総合的に判断する必要があるだろう。