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【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛の戦死後、巴御前は本当に91歳まで生きたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
巴御前を演じる秋元才加さん。(写真:アフロスポーツ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田合戦で和田義盛が戦死した。その後、巴御前は91歳まで生きたというが、それらの点について詳しく掘り下げてみよう。

■巴御前の来歴

 巴御前は中原兼遠の娘で、木曽義仲の愛人だったという。たしかな史料による生没年は不詳だ。父については『源平盛衰記』は中原兼遠の娘とし、『源平闘諍録』は樋口兼光の娘とするなど諸説がある。

 義仲が以仁王の求めに応じ、「打倒平氏」の兵を挙げると、巴御前は義仲とともに各地を転戦した。巴御前は強弓と太力で名を馳せ、武勇の誉れが高い女性だったといわれている。

 ところが、巴御前の名は、軍記物語の『平家物語』、『源平盛衰記』、『源平闘諍録』にしか登場せず、鎌倉幕府の正史たる『吾妻鏡』にすらあらわれない。それゆえ、実在すら疑われているのだ。

■義仲の最期

 寿永3年(1184)1月20日、義仲は勢多(瀬田)、宇治川の戦いで、源義経、同範頼に敗れた。敗北後、義仲は巴らとともに北陸へ落ち延びようとしたが、それは非常に難しいことになった。

 配下の今井兼平は義仲に対して、粟津の松原で静かに自害するよう勧めた。義仲は馬で粟津の松原に向かったが、馬が田のぬかるみで動けなくなり、敵に矢を射られて討ち死にした。

 巴御前は義仲から女であることを理由にして、早々に逃げるよう命じられていたが、命に従わず戦い続けた。そして、敵の恩田師重を討ち取ると、鎧と兜を脱ぎ捨て、東国へと落ち延びたと伝わっている。

■義盛と結ばれた巴御前

 『源平盛衰記』によると、その後、信濃へ逃げた巴御前は、源頼朝から鎌倉に出頭するよう命を受けた。巴御前が鎌倉に到着すると、頼朝は配下の者に処刑するよう命じた。

 すると、義盛は頼朝に対して、巴御前の身柄を預かりたいと願い出た。義盛の要望を受けたものの、頼朝は巴御前が復讐しないか心配だったので、その申し出を拒んだ。

 ところが、頼朝は義盛の粘り強さに根負けし、申し出を許可した。そして、義盛と巴御前の2人の間に誕生したのが、朝比奈義秀だったといわれている。

 義秀は安元2年(1176)に生まれたといわれているが、その年は義盛と巴御前が結ばれる前なので、話の辻褄が合わない。2人が結ばれたという説や義秀が2人の子だったという説は、虚説であろう。

■まとめ

 建暦3年(1213)5月に和田合戦が勃発し、和田義盛は戦死した。戦後、巴御前は越中に逃亡して出家し、義盛らの菩提を弔う日々を送ったという。

 巴御前は91歳で亡くなったといわれているが、それは『源平盛衰記』に書かれたもので、明確な根拠があるわけではない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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