【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦で、和田義盛に味方した横山時兼とは何者か
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田合戦で和田義盛が敗死した。その際、義盛に味方したのが横山時兼であるが、いかなる人物なのか詳しく掘り下げてみよう。
■横山党とは
和田義盛に味方した横山時兼は、横山党の一員だった。横山党は武蔵七党(横山・猪俣・野与・村山・西・児玉・丹。諸説あり)の一つで、武蔵国横山(東京都八王子市)を本拠としていた。
横山経兼・忠兼兄弟は、源頼義に従って前九年の役に出陣し、その子孫は保元・平治の乱で源義朝に従って参戦した。つまり、横山氏は一貫して、源家に付き従っていたことが明らかである。
源頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げると、横山時広(時兼の父)は頼朝に従って各地を転戦した。頼朝が鎌倉幕府を開幕すると、時広はその軍功を称えられ、横山荘を安堵されたのである。
■横山時兼と和田合戦
横山時兼は時広の子として、仁平3年(1153)に誕生した。父とともに頼朝に従って各地を転戦し、その功績によって淡路国守護に任命された。有力御家人の1人だったのである。
では、なぜ時兼は和田合戦に際して、義盛に味方したのだろうか。実のところ、義盛の妻は時兼の叔母だった。それだけではない。常盛(義盛の嫡男)の妻は、時兼の妹という事情があった。
そうした横山家と和田家の姻戚関係だけでなく、義盛には三浦義村が味方するという目算があった。時兼は総合的に判断して有利と思い、義盛に味方することを決意したと考えられる。
こうして建暦3年(1213)5月、和田合戦がはじまったが、義村の裏切りもあり、義盛ら和田一族は滅亡したのである。むろん、時兼にも過酷な運命が待ち構えていた。
■まとめ
敗戦後、時兼は甲斐国都留郡へと逃亡したが、ともに逃げていた妹婿の常盛とともに自害して果てた。その首は固瀬川(片瀬川)に梟首され、所領の横山荘も収公されたのである。