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【深掘り「鎌倉殿の13人」】決戦開始!北条義時はいつ和田義盛を討とうとスイッチが入ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条義時。(提供:イメージマート)

 本日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、いよいよ北条義時が和田義盛と雌雄を決する。いつ、義時は義盛を討とうと思ったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■古参御家人だった和田義盛

 和田義盛は久安3年(1147)の誕生なので、建暦3年(1213)の時点で67歳という高齢だった。幕府創設以来の功臣で、有力な御家人の三浦氏の一族でもあった。むろん、御家人のなかでは、最古参の部類に入るのは疑いない。

 治承4年(1180)における源頼朝の「打倒平家」の挙兵以来、義盛は幾多の合戦で大活躍した。義盛の存在を抜きにしては、平家滅亡はあり得なかったといっても過言ではない。

 もともと義盛は、侍所別当になりたいという願望を抱いていたという。それは単なる逸話かもしれないが、夢を叶えて侍所別当に就任した。侍所別当の役割の一つは、御家人を束ねることにあった。それは、幕府の軍事を司ることを意味したので、義盛にとって重要なことだった。

■義盛を恐れた義時

 一方、北条一族では時政が徐々に台頭しつつあった。時政は源頼家を擁する比企能員を滅亡に追い込み、代わりに実朝(頼家の弟)を擁立した。これにより、時政は権勢を高めることになった。

 その勢いで、時政は無実だった畠山重忠を討伐した挙句、妻の牧の方と結託し、平賀朝雅を新将軍に擁立しようとした。やりすぎた時政は御家人からの支持を得られず、失脚。あとを継いだのが子の義時だった。

 義時が実権を掌握するうえで、御家人の支持が必要だったが、そうなると必然的に義盛の存在が邪魔になった。義盛が上総国司(上総介)を望んだとき、姉の政子が拒否したのも、威勢の伸長を妨害するためだった。

■まとめ

 義時が確固たる権力を確立するには御家人からの支持が必要だった。さらに言えば、御家人を束ね、人望のある義盛を排除する必要があった。

 そうしたことを考えると、泉親衡の乱は偶然起こったのではなく、義時が和田一族を追い詰めるために画策した可能性もあろう。つまり、義時に「和田一族討伐」のスイッチが入ったのである。

 こうして両者は戦い(和田合戦)、最終的に義時が勝利した。その点は改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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