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【深掘り「鎌倉殿の13人」】これはビックリ!和田義盛にはあんなに子供がいたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和田義盛一族の墓と伝わる鎌倉市の和田塚。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田義盛の子供がたくさん出てきたので、ネット上が騒然としていた。本当に義盛にはあんなに子供がいたのか、詳しく掘り下げてみよう。

■和田義盛の妻

 最初に考えなくてはならないのが、和田義盛の妻のことである。義盛の正室は、渡会康高の娘だったといわれている。康高は豊受大神宮の禰宜だったが、あまり詳しいことはわからない人物である。

 側室の一人は、横山時重の娘である。時重は武蔵国横山党(武蔵七党の一つ)の一員で、妹は梶原景時を産んだことで知られている。また、娘は義盛のほか、渋谷高重に嫁いでいた。

 もう1人の側室は、巴御前だったといわれている。巴御前は木曽義仲の愛妾だったが、義仲の死後、鎌倉へ下って義盛の妻になったというのである。しかし、この説は疑わしいとされているので、義盛の正室、側室は2人だったといえるだろう。

■義盛の子供たち

 義盛の子供は、知られているだけでも8人(常盛、義氏、朝比奈義秀、義直、義重、義信、秀盛、杉浦義国)もいる。しかし、母がはっきりとしている子はいない。

 朝比奈義秀は、義盛と巴御前との間にできた子であるといわれているが、年代的に合わない。義秀が誕生したのは、巴御前と義盛が結ばれるよりも前のことである。そもそも先述のとおり、義盛が巴御前を妻にしたこと自体が疑わしいといえる。

 義盛には、知られているだけでも4人(義茂、宗実、義胤、義長)の兄弟がいた。ドラマで巴御前が驚いていたのは、義盛の子だけでなく、義盛の兄弟やその子たちが含まれていたからに違いない。そうでなければ、あんな大人数にはならないだろう。

■まとめ

 このように考えてみると、概して当時の人々が子だくさんとはいえ、いかに和田一族が多産だったかがわかる。特に、義盛の子の朝比奈義秀は、剛の者として知られていた。

 おまけに義盛は御家人のなかでも最古参の部類に入り、侍所別当も務めるなど、人望も厚かった。北条義時が義盛を恐れたのは、十分にうなずけるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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