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【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦前夜!三浦義村の暗躍により、和田義盛は非業の死を遂げたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三浦義村を演じる山本耕史さん。(写真:Motoo Naka/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、三浦義村の暗躍ぶりが注目される。義村の暗躍により、和田義盛は非業の死を遂げたのか、詳しく掘り下げてみよう。

■キーマンだった三浦義村

 三浦義村の生年は不詳であるが、仁安3年(1168)頃とされている。和田合戦が勃発したのは建暦3年(1213)なので、40代半ばの働き盛りだったことがわかる。

 そもそも義村は影が薄く、父の義澄が御家人として力を発揮していた。しかし、正治元年(1199)1月に源頼朝が亡くなると、義澄も後を追うようにして、翌年に亡くなった。父の死後、跡を継いだのが義村だった。

 頼朝の死の直後、勃発したのが梶原景時の乱である。景時に讒言された結城朝光が、真っ先に相談したのが義村だった。義村は和田義盛らと協議し、景時を討伐することを強く幕府に進言したのである。

 元久2年(1205)に畠山重忠の乱が勃発すると、義村は重忠ら畠山一族の討伐で大いに貢献した。続く牧氏の変でも、義村は北条時政邸にいた源実朝を連れ出すことで貢献した。

■和田合戦前夜にも暗躍

 義村が幕府の危機に際して、大活躍したのは疑いない。やがて、北条義時と和田義盛が対立的な様相を呈してくると、義村は背後で暗躍したのである。

 建暦3年(1213)2月に起こったのが泉親衡の乱である(詳細はこちら)。乱には、義盛の子の義直、義重と甥の胤長が関与していた。2人の子は助命されたが、胤長は陸奥国に流罪となり、居宅も義時に没収された。

 これにより、義盛は謀反を決意した。その際、協力を申し出たのが義村である。義盛と義村は、ともに三浦の同族である。義盛からすれば、とても心強かったに違いない。しかし・・・。

■まとめ

 義村は義盛の「打倒北条」の挙兵に応じたが、土壇場になって翻意した。義盛を裏切った義村は、ただちに義時のもとに走り、義盛の謀反を報告したのである。

 これにより形勢は逆転し、義盛は非業の死を遂げたのだが、和田合戦については改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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