【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛が北条義時に反旗を翻した、決定的な理由とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに泉親衡の乱が勃発した。和田義盛が北条義時に反旗を翻した理由について、詳しく掘り下げてみよう。
■泉親衡の乱後の措置
建暦3年(1213)2月、泉親衡の乱が露見し、和田義盛の子の義直、義重、そして甥の胤長が捕縛された。同じ頃、義盛は上総国伊北荘に出掛けて留守だったので、この事件のことは知らなかった。
義直が誕生したのは、治承元年(1177)のことである。義重については、生年不詳である。少なくとも義直は、37歳という分別盛りだった。2人が親衡に与した理由は、必ずしも明確とはいえない。
甥の胤長は、和田義長の子として寿永2年(1183)に誕生した。義長は義盛の弟である(生没年不詳)。胤長にしても、義長にしても、その生涯については不明な点が多い。
■義盛がキレた理由
事件の一報を聞いた義盛は、ただちに伊北荘から鎌倉へと向かった。義盛は2人の息子を救い出すべく、助命を嘆願した。その結果、義直、義重の2人は赦免されたのである。
義盛は甥の胤長を救い出すべく、一族98人を率いて、幕府に赦免を乞うた。ところが、胤長は謀反の張本人であるということで、許されることはなかった。
それどころか、胤長は義盛の面前で縛り付けられ、陸奥国への流罪を申し渡された。これは、義盛にとって屈辱的なことで、とうてい許すことはできなかった。この出来事が義盛が反旗を翻すきっかけになったという(和田合戦)。
なお、胤長が流罪になったので、妻は出家し、娘はショックのあまり病死した。先取りするようだが、胤長は同年5月の和田合戦後、配流先の陸奥国岩瀬郡鏡沼で殺害されたという。
■まとめ
義盛に義時への挙兵を決断させたのは、胤長の没収地をいったん与えられたのに、義時の手に渡ったことだった。所領は武士にとって命だった。
これにより、義盛の逆心は止まらなくなったという。こうして始まったのが和田合戦であるが、改めて取り上げることにしよう。