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【深掘り「鎌倉殿の13人」】ドラマにはなかった、北条義時の冷酷かつ非情なエピソード

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条義時。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、だんだん北条義時が冷酷かつ非情な人間となっている。今回はドラマになかったエピソードを紹介し、詳しく掘り下げてみよう。

■宇都宮頼綱の謀反

 父の時政を追放し、執権に就任した義時は、姉の政子、大江広元の助力を得、独裁体制を着々と築き上げた。むろん、義時に楯突く者があれば、容赦なく対抗手段に出たのである。

 元久2年(1205)6月に畠山重忠の乱が勃発し、その翌月には牧氏の変により、義時の父・時政が失脚した。同年8月になると、下野国の御家人である宇都宮頼綱が謀反を画策しているとの風聞が流れた。頼綱は一族郎党を引き連れ、鎌倉の襲撃を計画していたという。

 噂を聞きつけた義時は、広元、安達景盛を政子の邸宅に呼び出し、対策を協議した。その結果、義時は頼綱を討つことにしたのである。ところが、その直後になって、頼綱は義時に誓状を提出し、謀反の計画はなかったと詫びを入れ、ただちに出家したのである。

■その後の義時の態度

 頼綱は鎌倉の義時邸に向かい、疑念を説くため弁明を行おうとした。しかし、義時はすっかり態度を硬化させ、頼綱と会うことはなかった。怒り心頭の義時は、どうしても頼綱を許せなかったのだろう。

 困った頼綱は蓮生と名乗り、京嵯峨野の小倉山麓に庵をもうけ、隠遁生活を送ることにしたという。頼綱は義時との面会が叶わなかったので、態度で示すことにより、義時の許しを乞おうとしたのだろう。

 義時が陳謝した頼綱を許さず、ましてや容疑を解くような態度を見せなかったのは、厳格な態度を取ることによって、自らの威勢を保とうとしたからだろう。ゆえに義時は、冷酷非情であり続けなければならなかったのだ。

■まとめ

 当初、ドラマの中の義時は、誠に純朴な青年だった。一つ一つの試練を乗り越え、図らずも権力者になったとき、威勢を保つには冷酷非情にならねばならなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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