3代将軍の源実朝は和歌に傾倒した軟弱者で、政治的に無能な文学青年だったのか
「歴史探偵」で3代将軍の源実朝の特集を行っていた。実朝が和歌に通じていたのは事実だが、軟弱で政治的に無能な普通の文学青年だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源実朝と和歌
源実朝といえば、和歌に優れていたことで知られている。実朝が和歌に接したのは、元久2年(1205)頃といわれており、京都から勅撰和歌集『新古今和歌集』を取り寄せていた。『新古今和歌集』には、父・頼朝の和歌が2首も採られていた。
実朝は藤原定家の指導を仰ぐべく、自らが詠んだ和歌30首を送り指導を乞うた。その後、定家は歌論書『近代秀歌』を実朝に贈った。同書は和歌の歴史、作歌の方法、本歌取りの技法などを記したテキストで、秀歌の例も多数挙げていた。
承久元年(1219)1月27日、実朝は鶴岡八幡宮で公暁によって殺害された。実朝の生前にまとめられたのが私家集の『金槐和歌集』であり、藤原定家所伝本がよく知られている。
実朝の和歌は非常に重厚なもので、独特の個性や感性がうかがえることから、特に江戸時代以降は大絶賛された。『金槐和歌集』には、663首におよぶ実朝の和歌が収録されている(収録歌数は写本によって異なる)。
■実朝は軟弱だったのか
一般的に言えば、武士は誠に粗野な存在であり、日常は武芸の鍛錬に励むべきであると考えられている。それゆえ、実朝は政治をすっかり放擲し、和歌に逃げ道を作ったような印象を持たれている。
同時に、実朝は朝廷の官位も異例なほどの昇進スピードだった。これもまた批判の対象となった。実朝自身というよりも、幕府そのものが朝廷を重視しており、朝廷もまた幕府を無視できなかったのは明らかだろう。
近年の研究によると、実朝は決して政治を放擲したのではなく、むしろ積極的に取り組んでいたとの指摘もなされている。実朝が和歌などに親しんだのは、手本とした後鳥羽上皇の姿勢を学んだからだといわれている。
■まとめ
実朝が和歌に親しんだのは、特別なことではなく、ほかにも優れた武家歌人はいた。和歌のことだけをもって、実朝の政治的な無能さや軟弱さを指摘するのは、いささか早計に過ぎるだろう。
実朝が幕府を維持していくうえで、朝廷との友好関係は欠かすことができず、和歌に親しんだこともその一環と捉えるべきだろう。実朝は、いささか誤解をされた面があるように思える。