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【深掘り「鎌倉殿の13人」】無能で役に立たず、節操もなかった源行家の呆れた行動

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝像。頼朝は源行家を全く信用していなかった。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休止し、座談会で盛り上がっていた。源行家は無能で役に立たなかったが、その点について詳しく掘り下げてみよう。

■源行家と打倒平家

 源行家は、生年不詳。源為義の十男で、義朝の弟である(頼朝は甥)。治承4年(1180)、「打倒平氏」の気運が盛り上がると、山伏の姿に変装した行家は以仁王の「打倒平氏」の令旨を手にし、各地の源氏のもとへ令旨を伝達した。

 ところが、行家の打倒平家の動きは、熊野別当湛増がすでに承知していた。湛増が平家に報告したので、以仁王の「打倒平氏」の計画がばれたとの説もある。それが事実ならば、行家は最初から「やらかした」ことになる。

 同年、挙兵した頼朝は、富士川の戦いで平家に勝利した。ところが、富士川の戦い後、行家は頼朝に決起を促すが、頼朝は断った。頼朝は兵糧確保の問題(当時は飢饉だった)、東国支配の問題を優先したという。

 翌治承5年(1181)、行家は義円(頼朝の弟)を誘い、平家と墨俣川の戦いで交戦して敗北。行家は逃亡したが、一緒に出陣した義円は討ち死にした。敗戦後、行家は畿内や北陸道に出没し、活躍の機会をうかがっていた。

■無能で役に立たなかった行家

 その後、行家は、頼朝に先んじて入京した木曽義仲と行動をともにした。当初、義仲は後白河法皇の信任を得ていたが、やがて見放されて追討の対象となった。

 寿永3年(1184)1月、上洛した義経(頼朝の弟)が義仲を討つと、行家は義経に急接近した。行家は変わり身が早く、まったく節操のない男だった。

 元暦2年(1185)に平家が滅亡すると、行家は西国で勢力を拡大すべく暗躍した。頼朝としては、いかに行家が叔父であるとはいえ、もはや看過することができなかった。

 同年8月4日、行家の追討令が出されたので、義経とともに頼朝に対抗しようとした。行家は後白河から頼朝追討の宣旨を得ていたが、味方となる豪族は乏しかった。

 同年11月、負けを認めた行家らは都落ちし、文治2年(1186)5月に山城国で捕らえられ、子らとともに斬首されたのである。

■まとめ

 行家は他人をけしかけるが、連戦連敗で実績が皆無だった。それゆえ、頼朝は行家を信用していなかった。そもそも行家は十分な兵力がなかったので、合戦での勝算はほとんどなかった。

 行家は「神出鬼没」と言えば聞こえがいいが、あまりに無計画で節操がなかった。辟易とした頼朝は、行家を「口先だけの男」と思っていたのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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