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【深掘り「鎌倉殿の13人」】話を盛りすぎか?源平合戦における源義経の大活躍ぶり

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休止し、座談会で盛り上がっていた。源義経は源平合戦で大活躍だったが、それが史実なのか詳しく掘り下げてみよう。

■わからない合戦の模様

 寿永3年(1184)以降、本格化した源平合戦において、大活躍したのは源義経だった。義経の存在なくして、兄の源頼朝は平家を滅亡に追い込むことはできなかっただろう。

 ところで、義経の合戦における大活躍は、ほぼ『平家物語』といった軍記物語に記述されたものである。『平家物語』は、中世の軍記物語としては最高ランクの評価を得ているが、すべてにおいて正しいことが書かれているわけではない。

 『平家物語』が文学作品である以上、誇張やフィクションが盛り込まれていてもおかしくないのだ。また、当時は一次史料が乏しく、合戦の模様が詳しく描かれているわけでもない。以下、義経の有名な戦いなどを取り上げ、検証することにしよう。

■一の谷の戦い

 寿永3年(1184)2月、義経は一の谷の戦いで平家を撃破した。その際、義経は敵を背後から急襲するため、鵯越の峻険な崖を馬で駆け降りりたといわれている。また畠山重忠は、馬を担いで駆け降りたという。

 しかし、鵯越から一の谷までは距離的に離れており、現在に至っても義経が駆け降りた場所は特定されていない。馬が急坂を駆け降りるとは考えにくく(転倒するリスクが高い)、ましてや重い馬を担いで降りるなど不可能だろう。

 鵯越の一件は、あくまで創作に過ぎないのではないだろうか。むしろ、鵯越から尾根伝いに一の谷に迫り、平家の陣営の背後から奇襲攻撃を仕掛けたと考えるべきだろう。兄の範頼も摂津方面から進軍していたので、平家を挟撃する形になった。これが勝因と思われる。

■壇ノ浦の戦い

 元暦2年(1185)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。義経の勝因は、潮の流れの変化にあったと、長らくいわれ続けていた。

 合戦当初、赤間関に船を浮かべた平家は、西から東に流れる潮の勢いもあって、義経軍を東のほうへと押していった。しかし、潮の流れが東から西にかわると、今度は義経が平家を赤間関の方向に押し戻し、最終的に勝利したというのだ。

 しかし、今となっては、潮の流れが戦況に影響を与えるとは思えないという説が有力になった。そもそも平家は敗北を重ねつつ、西へと移動していった。その間、配下の将兵が離脱したり、残った者の士気が低下したと考えられる。それらが、平家の敗因ではなかったか。 

■まとめ

 義経の大活躍は、これまで大いに評価された節があるが、常識的に考えると疑問点も少なからずある。『平家物語』などの二次史料は誇張やフィクションも多分に含まれているので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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