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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政もびっくり。あっけない幕切れだった牧氏事件の真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鎌倉から追放された北条時政。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件により、北条時政がついに失脚した。牧氏事件の全貌について、詳しく掘り下げてみよう。

■権勢を誇った北条時政

 北条時政は、娘の政子が源頼朝と結婚したので、舅として頼朝を支えた。念願の打倒平氏を成し遂げたあとは、幕府内で重きを置かれたが、やがて激しい権力闘争を繰り広げた。

 正治元年(1199)1月に頼朝が亡くなると、嫡男の頼家が跡を継いだ。この家督継承が波乱の幕開けだった。同年10月から翌年1月にかけて起こったのは、梶原景時の変である。景時は結城朝光を讒言で陥れようとしたが失敗し、ついに討たれた。

 建仁3年(1203)9月には比企能員の変が起こり、時政は比企一族を滅亡に追い込んだ。そして、源頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、その後継者として頼家の弟の実朝を擁立した。一連の事件により、時政は実朝の後ろ盾となり、権力を掌中に収めたのである。

 元久2年(1205)、時政は畠山重忠・重保父子に謀反の嫌疑を掛けて討伐した。時政は盤石な体制を築いたかに思えたが、かえって子の政子・義時姉弟や御家人の反発を招いた。一転して時政は、窮地に立たされたのである。

■平賀朝雅の擁立

 時政の危機は、妻の牧の方の危機でもあった。2人は平賀朝雅を新将軍に擁立し、実朝を殺害しようと計画した(牧氏事件)。しかし、2人の起死回生の奇策は、失敗に終わった。

 元久2年(1205)閏7月19日、政子と義時は時政邸にいた実朝を自邸へと移した。2人は、時政らの陰謀に勘づいていたのである。御家人の多くも政子と義時に与同していた。

 勝ち目がないと判断した時政と牧の方は翌日に出家すると、鎌倉から伊豆へと追放された。京都守護として在京中だった朝雅は、翌月に在京の武士らによって討たれたのである。

 一連の事件の結果、時政は失脚し、義時は政所別当に就任した。北条氏が幕政を掌握したのは同じであるが、一族内での権力闘争を乗り越えたので、義時の権力はいっそう強まったのだ。

■まとめ

 そもそも御家人らは鎌倉殿のもとに集結し、利害関係を調整するなど、一致協力した体制を望んでいた。

 しかし、独裁的だった頼朝の死後、幕府は動揺し権力闘争が激しくなった。時政は権勢を握ったとはいえ、その姿勢は御家人から支持されず、ついに追放の憂き目に遭ったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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