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【深掘り「鎌倉殿の13人」】強い存在感を示す北条政子の権威の源泉の秘密

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条政子。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ますます強い存在感を示す北条政子の姿が描かれている。政子の権勢について、改めて詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝死後の北条政子

 正治元年(1199)、源頼朝が病没した。跡を継いで2代将軍に就任したのは、子の頼家である。頼家はまだ未熟でもあったので、政子は積極的に政治に関与したといわれている。

 同年8月、頼家が安達景盛の留守中に、その妻を奪うという事件があった。これが原因となり、両者の関係は悪化した。ついに、頼家は景盛を討伐しようとしたが、これを止めさせたのが政子だった。

 頼朝の死後、頼家は比企能員ら比企一族を後ろ盾としていた。一方、東国の御家人は北条時政を頼りにしていた。比企一族の台頭により、頼家と東国の御家人の対立は深刻になっていた。

 政子は両陣営の緩衝材の役割を果たし、政治的な安定に努めたといわれている。政子は頼家が我が子だったとはいえ、現職の将軍に直言できる唯一の存在なのだ。

■一連の騒動を封じ込めた政子

 建仁3年(1203)、頼家が危篤になると、後継者を誰に据えるかで、時政と能員は対立した。その際、事態を収拾すべく、積極的に動いたのは政子だった。

 政子は比企一族の討伐を命じ、見事に成功した。討伐は、政子の「仰せ」によって実行されたのである。そして、もはや不要になった頼家を伊豆修禅寺へ幽閉した。こうして、一連の比企能員の乱は無事に終息した。

 元久2年(1205)6月、畠山重忠の乱が勃発した。重忠には謀反の嫌疑が掛けられ、最終的に幕府軍によって討伐された(その後、謀反はでっち上げだったことが判明した)。

 乱後、重忠(および加担した武将)の遺領の配分を行ったのは、新将軍の実朝ではなく政子だった。実朝は将軍としては幼く、その役割が果たせなかったので、政子が代行したといえよう。

■まとめ

 頼朝死後の政子は、後家として源家を守る立場にあった。現在、後家は感心しない言葉であるが、当時は夫の死後、代わりに若い後継者を支え、政治的な力を発揮した。

 政子は頼朝の死後、図らずも我が子を支え、政治に関与する立場となった。そして、御家人もその指示に従ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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