【深掘り「鎌倉殿の13人」】畠山重忠の死後、北条政子がその遺領を御家人に与えた深いワケ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠の死後、北条政子がその遺領を御家人に与えた。なぜ政子が遺領を分配したのか、その裏事情を詳しく掘り下げてみよう。
■畠山重忠の死
元久2年(1205)6月22日、畠山重忠は二俣川の戦いで戦死した。重忠を討ったのは、愛甲季隆である。季隆の放った矢が致命傷になったという。重忠は自殺したとも言われているが、恐らく違うだろう(『愚管抄』)。
すでに、重忠の子の重保も討たれており、同じく子の重秀も自害した。畠山重忠の乱によって、畠山一族は、事実上の滅亡となったのである。
畠山氏は秩父氏の流れを汲み、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠としていた。重忠は武蔵国総検校職を務めるなど、武蔵国に威勢を及ぼしていた。
ところが、重忠の遺領については、詳しくわかっていない。文治5年(1189)の奥州合戦後、重忠は陸奥国葛岡郡地頭職を与えられたが、葛岡郡は実在しないなど問題がある。とはいえ、重忠は武蔵国内などに所領を保持したのは明らかだろう。
■北条政子が遺領を分配
元久2年(1205)7月8日、重忠と重忠に与した面々の遺領について、北条政子が分配して勲功の賞として与えた。同年7月20日、政子の女房にも恩賞が与えられたが、それも重忠の遺領だったという。
合戦後、手柄を挙げた御家人らに対し、恩賞を与えるのは当然である。しかし、畠山重忠の乱では、将軍の実朝ではなく、政子が恩賞を与えることになった。『吾妻鏡』には実朝が幼かったから、政子が恩賞を与えたと書かれている。
現在、「後家」という言葉は良くないとされているが、中世においては亡父の代わりに、我が子を支えるという重要な役割があった。政治的にも大きな発言権を有していたのである。
畠山重忠の乱は、時政、義時らをはじめ、縁者(稲毛重成ら)に影響する大事件となった。政子は乱に直接関わっておらず、また実朝の実母であり、後見的な役割を果たしていた。この点が大きなポイントになろう。
■まとめ
政子は後家として幼い実朝をサポートするだけなく、混乱した政治的な状況の中で、中立的な立場から重忠の遺領の配分を行ったということになろう。
それは北条一族に対する、御家人からの批判を避ける意味合いもあったと考えられる。