【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時は、本当に畠山重忠をかばったのか。その虚実を考える
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠・重保父子がついに討たれた。北条義時は畠山重忠をかばったといわれているが、その虚実を詳しく掘り下げてみよう。
■畠山重忠に謀反の意があった?
北条時政の威勢が伸長し、武蔵国に手を伸ばそうとしたのが事の発端である。畠山重忠は時政の姿勢に反発したので、両者の関係は険悪になった。
元久元年(1204)11月、源実朝の妻を迎える件で上洛していた平賀朝雅は、酒宴の席で畠山重保(重忠の子)と言い争いになった。原因は不明であるが、御家人らの執り成しによって、その場は収まった(以下、すべて『吾妻鏡』による)。
元久2年(1205)4月、時政は武蔵に蟄居していた娘婿の稲毛重成を鎌倉に招き寄せた。この頃、鎌倉は混乱が生じており、翌月には御家人の多くが帰国していた。これが、重忠と時政の関係に関わるものなのかはわからない。
同年6月20日、重保が鎌倉にやってきた。そう仕向けたのは、重成だったという。つまり、重成は時政の手先となって、畠山氏討伐に暗躍していたということになろう。
■重忠をかばった北条義時
同年6月21日、朝雅から牧の方に讒訴があったので、時政は重忠・重保父子を討つことを決意した。これに対して、猛反対したのは、義時と時房だった。
義時は、治承4年(1180)に源頼朝が打倒平氏の旗揚げをして以来、重忠が大いに貢献したこと、また比企氏の乱では能員の討伐でも軍功があったことを強調した。
すると、牧の方は使者を義時のもとに遣わし、謀反人の重忠をなぜ庇うのかと激しく叱責した。その結果、義時は重忠・重保父子を認めざるを得なくなったのである。つまり、義時が討伐の兵を出したのは、渋々ということになろう。
■まとめ
ところで、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に北条氏の関係者によって編纂された歴史書である。そして、北条義時は父の時政を追放することで、権力を掌中に収めた。
武士の鑑であり、無実だった重忠・重保父子を討ったことは、北条氏の汚点だった。義時が「重忠はわずか100騎ばかりで、謀反を起こす気がなかった」と述べているのは、その証左だろう。
のちになって、この責任を追放された時政や牧の方に押し付け、義時は仕方なく従ったことにしたのではないだろうか。義時は心ならずも、畠山氏を討ったことにしたのである。そうした可能性も考慮すべきだろう。