【深掘り「鎌倉殿の13人」】無念の思いを抱きながら、北条時政に消された武将3選
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条時政は政敵の武将を次々と殺害している。代表的な3人の武将を取り上げ、詳しく掘り下げてみよう。
■梶原景時
梶原景時は「讒言魔」といわれており、武将の間の評判がすこぶる悪かった。かの源義経が兄の頼朝に討伐されたのは、景時の讒言が原因だったといわれている。
正治元年(1199)10月、景時は結城朝光に「謀反の意がある」と讒言した。しかし、この讒言は御家人らの支持を得ることができず、かえって景時は窮地に立たされた。
翌年2月、鎌倉を追放された景時は、ついに一族もろとも討伐された。時政は景時の弾劾状に署名をしていないが、背後で暗躍していたのは明らかである。
■比企能員
比企能員は2代将軍・源頼家の乳父として、大いに権勢を振るっていた。しかし、頼家が危篤になると、時政は頼家の権限を一幡(頼家の嫡男)、千幡(実朝:頼家の弟)に分割して相続させてはどうかと能員に提案した。
能員は時政の提案を拒否したので、両者の対立は決定的になった。建仁3年(1203)9月、時政は能員を自邸に招くと殺害した。その直後、一幡が住んでいた小御所にも軍勢を送り込み、比企一族もろとも滅亡に追い込んだ。
比企一族の討伐後、時政は満を持したかの如く、千幡を新将軍として擁立した。これにより時政は、鎌倉幕府に確固たる地位を築くことに成功したのである。
■源頼家
2代将軍・頼家は、父・頼朝の死後に跡を継いだが、なかなか扱いにくい人間だった。バックには乳父の比企能員がついていたので、時政と対立するようになり、ことは次第に面倒なことになっていった。
建仁3年(1203)7月、頼家は病に伏した。時政は頼家が回復しないと勝手に決めつけ、朝廷に頼家が死んだこと、後継者に千幡を据えたいと申し出、それは認められた。そして、比企能員を殺害し、比企一族を滅亡に追い込んだのである。
その直後、頼家は奇跡的に回復したが、そのまま伊豆の修禅寺に幽閉された。翌年7月、頼家は修禅寺で殺害されたが、犯人は時政と義時の2つの説がある。頼家の死後、時政は大江広元ともに政所別当に就任し、権勢を振るうようになったのである。
■まとめ
時政は頼朝の義父として台頭し、やがて御家人のなかでも突出する存在となった。そのためには、次々と政敵を葬り去らねばならなかった。とはいえ、のちに時政も失脚するのだが・・・。