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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条政範に毒を盛ったのは、平賀朝雅? 畠山重保?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
畠山重忠と対立していた北条時政。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条政範が急死した。その犯人は平賀朝雅なのか、畠山重保なのか、詳しく掘り下げてみよう。

■北条政範の急死

 大河ドラマでは、上洛した北条政範が急死してしまった。政範は、北条時政と後妻の牧の方との間に誕生した子である。一説によると、政範は時政の後継者と目されたといわれている。

 元久元年(1204)10月、政範は3代将軍・源実朝の妻(坊門信清の娘)を鎌倉に迎えるため上洛した。政範は同年11月3日に京都に入ったが、同年11月5日に急死した。病気に罹って亡くなったという(『仲資王記』)。

 大河ドラマでは、平賀朝雅が政範の食事に毒を盛るように指示していた。朝雅はのちに将軍候補として、時政が擁立した人物である。時政の娘婿でもあった。朝雅の目論見通り、政範は毒で急死した。

 ところが、一連の朝雅の動きを知ったのが、畠山重保(重忠の子)である。朝雅も重保に見られたことを知ったので、先に牧の方のもとに向かい、「政範は重保に殺されたので、仇を取ってほしい」と訴えた。これを聞いた牧の方は激昂した。

 実は、時政と畠山重忠は、武蔵の国務をめぐって対立していた。牧の方にすれば、重保ならやりかねないと判断したのだろう。朝雅の虚偽の報告が争いのもとになったといえよう。

■政範が死んだ理由

 大河ドラマはフィクションなので、朝雅が毒を盛ったところを重保が見ていたことにしたのだろう。驚いた朝雅は、先に牧の方に重保を訴えた。このことが、畠山氏討伐の口実になったというわけだ。あとのドラマの流れに見事につながる。

 朝雅が重保を訴えたのは事実であるが、それは政範暗殺の濡れ衣を着せたのではなく、あくまで重保の謀反の嫌疑である。したがって、この点は史実と相違があるといえるだろう。では、誰が政範を暗殺したのか。

 鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』を見ても、政範の死因は明確に書かれていない。ただ「亡くなった」と記すのみである。もし、朝雅でも重保でも政範を暗殺したのならば、きちんと書いたはずである。

 つまり、『吾妻鏡』に政範の死因や死に至る経緯が書かれていないということは、単に急死したということになろう。政範に何らかの持病があった可能性もある。

■まとめ

 時政と重忠に確執が生じており、朝雅が重保に謀反の意があると、牧の方に訴えたのは事実である。今回の大河ドラマでは、畠山氏討伐の口実として、朝雅が毒を盛ったというフィクションを盛り込んだのだと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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