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【深掘り「鎌倉殿の13人」】鎌倉幕府成立の立役者だった、畠山重忠の華麗なる経歴

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
畠山重忠を演じる中川大志さん。(写真:中原義史/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに畠山重忠と北条時政との対立が先鋭化した。とはいえ、重忠は鎌倉幕府成立の立役者だったので、その経歴を詳しく掘り下げてみよう。

■畠山重忠とは

 畠山氏は桓武平氏の流れを汲む一族で、秩父重弘の長男・重能が武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠として「畠山」を名字とした。

 畠山重忠が重能の子として生まれたのは、長寛2年(1164)である。重忠の母が三浦義明の娘だったので、両者は婚姻を通して強固な関係を築いたのである。

 治承4年(1180)、源頼朝は以仁王の「打倒平氏」の令旨を受け挙兵したが、石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れ逃亡した。石橋山の戦いの際、三浦一族は頼朝と合流すべく出陣したが、大雨で丸子川(酒匂川)を渡れず合流できなかったという。

 石橋山の戦い後、平家に属した重忠の率いる軍勢は、由比ガ浜で三浦一族の軍勢と遭遇した。三浦方の和田義盛が重忠の軍勢の前で名乗りを上げ、一触即発の事態に陥った。

 しかし、双方は縁者も多かったので、和平を結ぶ雰囲気になったが、和田義茂(義盛の弟)が突如として重忠の軍勢に戦いを仕掛け、両軍入り乱れての戦いとなった。

 その結果、軍勢の乏しい三浦氏は戦場を離脱し、本拠の三浦に這う這うの体で逃亡した。一方の畠山勢も、50もの戦死者を出したという。

 同年8月26日、重忠は同じ秩父氏の一族である河越重頼に援軍を要請した。重頼は江戸重長とともに、援軍を率いて重忠の軍勢に合流した。

 大軍となった重忠の軍勢は、満を持して三浦勢が籠る衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃し、8月27日に落としたのである。

■頼朝に従った重忠

 石橋山の戦いで敗れた頼朝は、安房国に渡海して再起を図った。懸命の努力により、上総、安房、下総など、関東の豪族は続々と頼朝に味方すべく参上した。

 頼朝の再挙後、重忠は頼朝の陣営に身を投じた。御家人に列せられた重忠は、北条時政の娘を妻に迎えた。重忠は婚姻を通して、北条一族と強固な関係を築いた。

 以降、重忠は一連の平家討伐の戦いに出陣し、大いに軍功を挙げた。建久元年(1193)に頼朝が右近衛大将拝賀のため上洛した際、重忠はその随兵を務めた。重忠は、頼朝から厚い信頼を得たのである。

 正治元年(1199)1月に頼朝が亡くなると、梶原景時が結城朝光を讒言で陥れようとした。翌年、景時に反発した御家人は、景時を糾弾する連判状を作成し、翌年になって景時を討った。その際、重忠も景時の糾弾、討伐に大いに関わった。

 建仁3年(1203)に比企の乱が勃発すると、重忠は北条一族に味方し、比企能員ら北条一族の討伐に貢献した。重忠は時政の娘を妻としていたのだから、当然のことといえるだろう。

■まとめ

 頼朝亡き後、重忠は北条一族を頼ることで、命脈を保った。しかし、時政は実朝を将軍に擁立すると、武蔵国へと食指を伸ばした。

 いかに時政が義父とはいえ、これは武蔵国に本拠を置く重忠にとってまずいことだった。こうして重忠は、時政と対立の様相を深めるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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