【深掘り「鎌倉殿の13人」】平賀朝雅が登用された知られざる理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平賀朝雅の存在が注目される。朝雅とはどのような人物なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■平賀氏とは
平賀氏は河内源氏の流れを汲む名族で、信濃国佐久郡平賀郷(長野県佐久市)を本拠とした豪族である。平賀義信(朝雅の父)は源義朝に従って、平治の乱に出陣した。しかし、義朝は敗北を喫し、義信もしばらく史料上から姿を消した。
治承4年(1180)、義朝の子・頼朝が打倒平家の兵を挙げると、義信はただちに馳せ参じた。平賀氏は源家の門葉として厚遇され、子の惟義は伊賀国守護(のちに相模守にも任じられた)、義信は武蔵守にそれぞれ任命された。平賀一族が頼朝からいかに重用されたかがわかるだろう。
朝雅が義信の子として誕生したのは、康治2年(1143)のことである。母は、比企尼の3女だった。朝雅も父と同じく重用されたのは、もちろん言うまでもない。
■朝雅の活躍
頼朝の死後、子の頼家があとを継いだが、北条時政と比企能員は主導を争って、関係が悪化していた。朝雅の母は比企尼の3女であり、妻は時政の娘だった。朝雅は時政と能員との間で板挟みになったが、建仁2年(1202)に朝雅の母は亡くなった。
建仁3年(1203)に比企の乱が勃発し、時政は能員を呼び出して殺害。直後に比企一族を滅亡に追い込んだ。乱のとき、朝雅は比企方ではなく、父の義信とともに北条方に与した。この判断は正しく、のちの朝雅の栄達に繋がった。
乱後、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され(その後、殺害された)、時政のクーデターは成功した。朝雅は乱後の動揺を鎮めるべく、京都守護に任命された。頼家の弟・実朝が元服した際、父の義信は加冠役を務めた。平賀一族は時政に加担したことで、栄達の道が開けたのだ。
■まとめ
朝雅は比企・北条の両家と姻戚関係にあった。これ自体は悪くないが、両家が対立すると、たちまち厳しい判断を迫られた。朝雅は、北条方に与することで活路を見出した。その背景には、源家の門葉で筆頭だったという事情も大きく作用したに違いない。