【深掘り「鎌倉殿の13人」】病に罹った源頼家は、なぜ出家したのだろうか。その意外な理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の31回目では、源頼家が病に倒れた。頼家は出家したようで頭を剃っていたが、その点について詳しく掘り下げてみよう。
■病に罹った源頼家
源頼家が突如として病に罹ったのは、建仁3年(1203)7月20日のことである。病の平癒を願って祈禱したところ、その原因は霊神の祟りであったと伝わっている(『吾妻鏡』)。
同年8月10日、頼家は三島大社に病気の平癒を願う願文を奉納した。当時も医者はいたが、医学が発達していなかったので頼りにならない。神仏にすがるのが普通だったのだ。
その後、頼家が重篤になったので、北条時政は一幡(頼家の嫡子)に関東28ヵ国の地頭職および総守護職を、千幡(頼家の弟:のちの実朝)に関西38ヵ国の地頭職を譲ることを提案した。
これに反発したのが比企能員で、同年9月2日の比企の乱で時政によって討たれた。その後、比企一族と一幡は幕府方の攻撃を受け、悲惨な最期を遂げたのである。
■頼家の出家
ところで、ドラマをご覧になった方は、頼家の頭が剃られたことにお気づきになったに違いない。実は比企の乱後の9月7日、頼家は死んだと朝廷に報告され、千幡が将軍に擁立された(この点は改めて取り上げる)。
この時点で、頼家は亡くなっていないので嘘の報告である。時政らは千幡を将軍に擁立するため、頼家が死んだことにしたのだろう。
同年9月7日、頼家の病が深刻になったので、母の北条政子は頼家が政務の任に堪えられないと判断した。そこで、頼家を落飾(出家)させたという(『吾妻鏡』)。
死の間際に出家することを臨終出家という。これは本格的に僧侶になるのではなく、死の前に極楽浄土に行くことを願って、形だけの出家をするのである。頼家の父・頼朝も行った。
頼家が出家したとの風聞は、『明月記』や『猪熊関白記』にも書かれている。したがって、頼家の病状がかなり深刻であり、臨終出家した可能性はかなり高かったと考えられる。つまり、頼家はすぐに死ぬと思い、次期将軍の決定というフライングを犯したのだ。
■まとめ
この流れを見る限り、時政や政子は頼家の死が時間の問題と考えたに違いない。そこで、比企能員を討ち、千幡を将軍に擁立したが、意外なことに頼家が蘇った。これは非常に困ったことで、何かと理由をつけて、頼家を処分せざるを得なくなったのだろう。