大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、源頼家が征夷大将軍にようやく就任した。その経緯について、詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家の家督相続

 建久10年(1199)1月13日、源頼家の父・頼朝が急に亡くなった。頼朝は前年から病に伏せがちだったといわれており、その死因は落馬による怪我、飲水病(糖尿病)だったと史料に書かれている。

 頼朝死後の家督相続は、幕府のみならず頼家にとって大問題だった。とはいえ、頼家は頼朝の嫡男だったので、源家の家督を継承するのは当然のことだったといえる。

 頼朝が亡くなってから約2週間後の同年1月26日、頼家は朝廷から源家の家督を安堵され、引き続き家人に諸国の守護を奉行させることも承認された(『吾妻鏡』など)。

 本来、家督の安堵は源家内部で決めればいいことであるが、諸国の守護を束ねる源家の場合は特別だった。それゆえ、あえて頼家の家督相続は、朝廷からの承認が必要だったのだろう。

■頼家の征夷大将軍就任

 頼家は頼朝の死後、すぐに源家の家督継承を朝廷から承認され、引き続き家人を諸国の守護にすることも認められた。ところが、速やかに頼朝の後継者として、征夷大将軍に就任したわけではない。

 建久3年(1192)7月12日、頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられたが(『吾妻鏡』など)、2年後の建久5年(1194)10月10日に征夷大将軍の職を辞した(『尊卑文脈』)。

 その理由は、明らかではないが、その後の幕府運営に支障があったわけではない。つまり、頼朝が征夷大将軍の職を辞してから亡くなるまで、約4年3ヵ月もの空白期間があったのだ。

 頼家が征夷大将軍に就任したのは、建仁2年(1202)7月22日のことである。頼家が源家の家督を継承してから、約3年半もの歳月が流れていた。この間、幕府から朝廷に要望した形跡はない。

 頼家が征夷大将軍に就任した事実は、『公卿補任』、『吾妻鏡』などに記録されているが、後者は頼朝が征夷大将軍に任じられたときのように、多くの記録を残していない。誠に素っ気ない記述である。

■まとめ

 征夷大将軍というのは、そもそも源家に世襲されることを想定していなかったようである。頼家が征夷大将軍に就任したとき、従二位下・左衛門督に叙位任官された。頼家の昇叙に合わせて、幕府側が打診したものだろうか。

 いずれにしても、頼家が家督を相続したとき、征夷大将軍へのこだわりがなかったのは事実である。