Yahoo!ニュース

【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が征夷大将軍に就任するのは、既定路線ではなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家を演じる金子大地さん。(写真:2020 TIFF/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、源頼家が征夷大将軍にようやく就任した。その経緯について、詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家の家督相続

 建久10年(1199)1月13日、源頼家の父・頼朝が急に亡くなった。頼朝は前年から病に伏せがちだったといわれており、その死因は落馬による怪我、飲水病(糖尿病)だったと史料に書かれている。

 頼朝死後の家督相続は、幕府のみならず頼家にとって大問題だった。とはいえ、頼家は頼朝の嫡男だったので、源家の家督を継承するのは当然のことだったといえる。

 頼朝が亡くなってから約2週間後の同年1月26日、頼家は朝廷から源家の家督を安堵され、引き続き家人に諸国の守護を奉行させることも承認された(『吾妻鏡』など)。

 本来、家督の安堵は源家内部で決めればいいことであるが、諸国の守護を束ねる源家の場合は特別だった。それゆえ、あえて頼家の家督相続は、朝廷からの承認が必要だったのだろう。

■頼家の征夷大将軍就任

 頼家は頼朝の死後、すぐに源家の家督継承を朝廷から承認され、引き続き家人を諸国の守護にすることも認められた。ところが、速やかに頼朝の後継者として、征夷大将軍に就任したわけではない。

 建久3年(1192)7月12日、頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられたが(『吾妻鏡』など)、2年後の建久5年(1194)10月10日に征夷大将軍の職を辞した(『尊卑文脈』)。

 その理由は、明らかではないが、その後の幕府運営に支障があったわけではない。つまり、頼朝が征夷大将軍の職を辞してから亡くなるまで、約4年3ヵ月もの空白期間があったのだ。

 頼家が征夷大将軍に就任したのは、建仁2年(1202)7月22日のことである。頼家が源家の家督を継承してから、約3年半もの歳月が流れていた。この間、幕府から朝廷に要望した形跡はない。

 頼家が征夷大将軍に就任した事実は、『公卿補任』、『吾妻鏡』などに記録されているが、後者は頼朝が征夷大将軍に任じられたときのように、多くの記録を残していない。誠に素っ気ない記述である。

■まとめ

 征夷大将軍というのは、そもそも源家に世襲されることを想定していなかったようである。頼家が征夷大将軍に就任したとき、従二位下・左衛門督に叙位任官された。頼家の昇叙に合わせて、幕府側が打診したものだろうか。

 いずれにしても、頼家が家督を相続したとき、征夷大将軍へのこだわりがなかったのは事実である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事