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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝を支え続けた三浦義澄は、反梶原景時の急先鋒だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三浦半島は三浦義澄の本拠だった。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、ついに三浦義澄が亡くなった。義澄と梶原景時との関係やその最期について、詳しく掘り下げてみよう。

■三浦義澄の来歴

 大治2年(1127)、三浦義澄は義明の次男として誕生した。義明には義宗なる嫡男がいたが、長寛2年(1164)に合戦で討ち死にした。なお、義宗は和田氏の祖である。

 平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、義澄は父の義明とともに源義平(義朝の嫡男)に従って出陣した。しかし、義朝は敗北を喫し、東国へ下向中に殺され、2人も這う這うの体で三浦に逃げ帰った。

 以後、三浦氏は平氏に仕え、京都大番役(内裏や院御所の警護を担当する役)を務めた。こうして義澄は平家に従うことで、細々と命脈を保ったのである。

■活躍した義澄

 治承4年(1180)に源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、義明・義澄父子もただちに出陣した。しかし、頼朝は石橋山の戦いで敗北し、義明は衣笠城の戦いで、畠山重忠に討たれた。義澄にとっては、人生最大の大ピンチだった。

 その後、安房に渡海した頼朝は東国の豪族の支援を受け、見事に復活した。その際、強力に頼朝をバックアップしたのは、義澄ら宿老的な立場の人物だった。

 義澄は源平の戦いで各地を転戦して勝利に貢献し、壇ノ浦の戦いでは、合戦の能力を高く買われ活躍した。戦後、義澄は相模国守護に任命され、幕府内に確固たる地位を築いたのである。

 建久2年(1192)、頼朝が征夷大将軍に就任すると、義澄は鎌倉でその除書(辞令書)を受け取る役目を担当した。頼朝は、義澄を信頼していたのだろう。

■義澄の最期

 建久10年(1199)1月、頼朝が急死した。頼朝の死後、家督を継いだのが嫡男の頼家である。頼家の専制を抑制すべく、13人の合議制が設置され、義澄もその1人に加えられた。これまでのキャリアからすれば、当然のことであろう。

 正治元年(1199)の秋頃、梶原景時が結城朝光を讒言したことに端を発し、「反景時」の動きが活発化した。朝光から相談を受けた義澄の子・義村は、「反景時」の動きを見せた。

 義澄、義村ら66名の御家人は、景時の弾劾状に署名し、源頼家に差し出した。これにより景時は鎌倉から追放され、翌年に梶原一族は滅亡したのである。

 正治元年(1199)1月23日、義澄は亡くなった。梶原一族が滅亡して、3日後のことだった。享年74。義澄の墓は、薬王寺跡(神奈川県横須賀市)にある。

■まとめ

 義澄の死後、家督を継いだのは義村である。義村は幕政に積極的に関与し、梶原景時の変、畠山重忠の乱、牧氏の変などで大いに活躍した。その辺りは、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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