【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政が源氏以外で初めて国守に任命された意義
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、北条時政が源氏以外で初めて国守に任命された。その意義について、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時政の遠江守補任
正治2年(1200)4月1日、北条時政は従五位下・遠江守に叙位任官された。この記録は、『吾妻鏡』、『鎌倉大日記』といった史料に記載されている。時政が遠江守に任官されたことは、大きな意味があった。
源頼朝が健在のとき、国守に任官されたのは源家の一門に限られていた。寿永3年(1184)6月、頼朝の弟・範頼はその軍功が大いに評価され、三河守に任官された。
このとき同じ弟の義経は任官されなかったが、元暦2年(1185)8月には伊予守に任官された。しかし、義経はそれ以前に朝廷から無断で任官されたので、結局は頼朝に討伐されてしまった。
義経が伊予守に任官されたとき、頼朝は山名義範を伊豆守に、大内惟義を相模守に、足利義兼を上総介に、小笠原遠光を信濃守に、安田義資を越後守に任官した。いずれも源家の一門である。
この前年の元暦元年(1184)9月、大江広元が因幡守に任官された。これは、広元が公文所別当に就任したので、頼朝が例外として認めたものだろう。例外かつ破格の扱いだった。
■遠江守任官の意義
時政が遠江守に任官されたことには、大きな意義があった。それは、幕府草創以来の功臣として評価されただけでない。「国守任官は源家の一門のみ」の原則を破ってまで任官されたので、時政の地位が源家の一門と同格になったことを示した。
この時点において、頼家の官位は正五位下・左衛門督にすぎなかった。つまり、時政の得た官位は肉薄しており、頼家と比較しても何ら遜色がなかったのである。
対するライバルの比企能員は、国守に任じられていない。時政が先んじて従五位下・遠江守に叙位任官されたことは、幕府内に確固たる地位を築いたことを意味したのである。
■まとめ
時政が従五位下・遠江守に叙位任官されたことは、単に朝廷からその地位を認められただけではなかった。これまでの国守任官の基準を打破し、幕府内に強い影響力を及ぼすきっかけとなった。とはいえ、このことが幕府内における権力闘争を呼び起こしたのだから、皮肉な話である。