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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家は、本当に安達景盛の側室を寝取ったのか!その顛末

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家は、本当に安達景盛の側室を寝取ったのか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、源頼家が安達景盛の側室を寝取っていた。この話の顛末について、詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家の不義

 『吾妻鏡』正治元年(1199)7月20日条によると、雨が降りしきる深夜から朝方にかけて。頼家は中野能成を使者として、安達景盛の側室を召し出したという。景盛の側室は、小笠原長経の邸宅に召された。

 景盛は、「13人の合議制」に加わった盛長(出家して「蓮西」。以下、盛長で統一)の子だった。その側室についての詳細は不詳である。

 頼家は景盛の側室をことのほか寵愛したというので、かなり美しい女性だったのだろう。以前から頼家は彼女に書状を送っていたが、面会は拒否されていた。

 頼家がこうした暴挙に出たのは、景盛が宮重広なる賊を討ち取るため、三河国へと出陣している隙を狙ったものだった。しかし、景盛は側室と離れたくなかったので、出陣には乗り気でなかったという。

 『吾妻鏡』正治元年(1199)7月26日条によると、頼家は夜になって景盛の妻を北向御所に住まわせるという暴挙に出た。しかも頼家は、小笠原長経、比企三郎、和田朝盛、中野能成、細野四郎の5人以外を御所に来てはならないと命じたのである。

■焦った景盛

 『吾妻鏡』正治元年(1199)8月18日条によると、三河から戻った景盛は側室がいないことに驚いた。家来に命じて探させたが、ついに見つけることができなかった。景盛は、大いに焦ったのである。

 『吾妻鏡』正治元年(1199)8月19日条によると、頼家は景盛が側室の件で、恨みを抱いているとの讒言を耳にした。この頃には、景盛も真相を知ったのだろう。とはいえ、もともとは頼家が悪いのだから、讒言というのもおかしな話である。

 そこで、頼家は小笠原長経らの軍勢を集め、景盛を討つよう命じた。これにより、鎌倉中は騒然となり、武装した武士らがそれぞれの味方する陣営に馳せ参じたのである。

■北条政子の仲裁

 両者が一触即発の事態に陥ったとき、仲裁したのが北条政子である。政子は安達盛長の邸宅に行くと、頼家のもとに二階堂行光を遣わし、戦いを止めるよう説得した。

 政子が問題視したのは、頼家が景盛に非があることを確かめていないことだった。事実を確認せず景盛を討つのならば、「まず私(政子)がその矢に当たります」とまで言ったのである。結果、頼家は政子の説得に応じ、景盛の討伐を取り止めたのである。

 その後、政子は景盛に「頼家を恨んでいない」という趣旨の起請文を作成させ、それを頼家に渡した。それだけでなく、他人の側室を奪うなど、政治姿勢がなっていないと批判したのである。

■まとめ

 政子が頼家を叱責した際、側近の無能ぶりを指摘した。これは、ライバルの比企能員らを指している。頼家は頼朝同様に独裁を志向したかもしれないが、政子は頼朝が信頼した安達一族を軽視したことが許せなかった。

 同時に、政子の実家である北条一族が軽視されることも許せなかった。それゆえ、景盛の側室を奪った事件に乗じて、政子はあえて頼家に諌言したのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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