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【先取り「どうする家康」】本能寺の変前夜、織田信長は徳川家康を討つつもりだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
駿府城の徳川家康像。(写真:イメージマート)

 来年の大河ドラマ「どうする家康」は、すでに多くのキャストが発表され、各地で講演会も催されている。今回は、本能寺の変前夜、織田信長が徳川家康を討とうとしたのかについて、詳しく掘り下げてみよう。

■織田信長は徳川家康を討つつもりだった?

 明智光秀は本能寺で織田信長ではなく、徳川家康を討つつもりだったという説がある。かねて信長は光秀と密談し、邪魔になった家康を討とうと画策し、その討伐を光秀に命じたというのだ。

 このことは、フロイスの『日本史』や、寛永17年(1640)に成立した『本城惣右衛門覚書』にも同趣旨のことが記されている。とはいえ、『日本史』がどういう意図や根拠でそう書いたのかは不明である。

 また、近年の研究によると、『本城惣右衛門覚書』の該当する記述を「家康を討つ」と解釈したのは誤りで、「家康の援軍に行く」という解釈が正しいとされている。『本城惣右衛門覚書』は本能寺の変から約60年後に成立したので、慎重な検討が必要である。

 日本側のたしかな史料には、信長と家康の関係が悪かったとか、信長が家康を討とうとしたと書かれたものはないので、上記の説を正しいとするのには躊躇する。以下、信長と家康との関係について考えてみよう。

■信長と家康の関係

 当初、信長と家康の関係は対等だった。信長と家康が結んだ同盟は、単なる領土画定の同盟に止まっており、軍事同盟までは含まれていなかったという。それゆえ、両者の関係は対等だったのだ。

 天正元年(1573)に足利義昭が信長によって京都を追放されると、家康は信長の臣下へと立場が変わり、信長への従属を余儀なくされた。天正3年(1575)の長篠の戦いで、信長が家康に国衆の一人として先陣を命じたのはその好例である(『信長公記』)。

 天正10年(1582)3月に信長が武田氏討伐を開始した際、家康に駿河口の大将を任せた(『信長公記』)。家康は信長の配下にあったので、命に従わざるを得なかった。戦後、信長が家康に駿河国を与えたのは、家康が配下の武将だったからである。

■家康討伐計画はありえない

 信長と家康の関係は実に緊密なものだったが、信長が家康を討つ理由はあったのか。冷静に考えてみると、信長が家康を討つことには、何らメリットがない。しかも、いったん光秀が居城の亀山城(京都府亀岡市)まで出陣し、わざわざ本能寺に戻ってくるのは理解に苦しむ。

 天正10年(1582)5月、家康は駿河拝領のお礼のために安土城(滋賀県近江八幡市)に招かれ、光秀が饗応役を担当したのだから、そのときに討つのが合理的とは言えないか。

 仮に、家康の討伐に成功しても、子の秀忠や有力な家臣らは健在であり、三河・遠江・駿河の徳川勢がすぐに降参するとは思えない。かえって激しく抵抗されると、すでに毛利氏、長宗我部氏、上杉氏と交戦していた信長にとって、大きなデメリットになるのは間違いない。

■家康には利用価値があった

 武田氏の滅亡後、家康が用済みになったので、信長は討とうとしたという説があるが、賛同し難い。信長に敵対する越後の上杉氏や関東に覇権を築いた北条氏は強力だったので、以後も家康の力は必要だった。

 その後の信長の天下統一の戦いを考慮すると、家康の利用価値は十分にあったと考えられる。

 つまり、家康は信長が領土拡大戦争を行ううえで貴重な戦力であったといえ、信長が家康を討つ積極的な理由が見当たらない。以後のことを考えると、信長にとってデメリットのほうが大きいのだ。

 したがって、信長が家康を討とうとしたという説は明確な根拠がなく、成立しないのだ。

【主要参考文献】

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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