【先取り「どうする家康」】徳川家康のあの有名なエピソードは、何の根拠もない代物だった
来年の大河ドラマ「どうする家康」は、すでに多くのキャストが発表され、各地で講演会も催されている。今回は、徳川家康の「あの有名なエピソード」について、詳しく掘り下げてみよう。
■徳川家康の有名なエピソード
元亀3年(1573)12月、徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて敗走した際、あまりの恐怖に脱糞したという。その後、家康が戒めとして描かせたが有名な「顰(しかみ)像」といわれている。それは、事実なのだろうか?
元亀3年(1573)12月、徳川家康は織田信長と協力し、三方ヶ原(静岡県浜松市北区)で武田信玄の軍勢に戦いを挑んだが、結果は無残な敗北だった。
敗走する家康は、あまりの恐怖に脱糞してしまった。家康は浜松城に到着後、その事実を家臣から指摘されたといわれている。その際、家康は「これは味噌だ」と家臣に言い訳したといわれているが、まるで漫才みたいな話である。
合戦後、家康は敗戦の悔しさを忘れず、また自身の慢心を戒めるために自身の姿を絵師に書かせた。これが有名な「顰(しかみ)像」である。家康は、生涯にわたって「顰(しかみ)像」を座右に置き、その時の悔しさを忘れないようにしたといわれている。
正式にいうと、「顰(しかみ)像」は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)と名付けられている。座った家康が足を組んで、頬杖をついている姿はあまりに有名であろう。
■数々ある疑問
この絵の伝来については、多くの疑問がある。18世紀末頃には単に家康の肖像画とされていたが、明治期には「長篠戦役図」と称されるようになった。昭和になって、家康が三方ヶ原の敗戦を戒めるために描かせた肖像画として伝わった。つまり、途中から三方ヶ原の戦いのものとされたのだ。
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」については、すでにさまざまな疑問が指摘されている。美術史の観点からいえば、三方ヶ原合戦後に書かれたものではなく、後世に描かれたものではないかといわれている。描法を勘案すると、17世紀頃の作品ではないかとの説がある。
家康の表情は「忿怒(大いに怒ること)」を表現しており、むしろ家康を神格化したものではないかとされる一方で、座っている姿は半跏思惟(思索している弥勒菩薩の姿)とも指摘されている。評価はさまざまだ。
何よりも「徳川家康三方ヶ原戦役画像」には、「三方ヶ原合戦後のものである」と書いた添付資料(箱書や目録など)がない。したがって、伝来がはっきりしないことから、現在では三方ヶ原合戦後の作品とするには疑問が多いといわれている。
■まとめ
実は、家康が三方ヶ原での敗戦を忘れぬよう、自分の姿を描かせ、生涯にわたって戒めのため座右に置いたというのは、同時代の史料には書かれていない。それは、後世になって付加されたもので、「顰(しかみ)像」が三方ヶ原敗戦後の家康を描いたという根拠はまったくないのだ。
それは単なる伝承の類にすぎず、脱糞の件も同じことである。家康を描いた「顰(しかみ)像」は大変ユニークな由緒を持つことで知られ、また脱糞のおもしろい話なのだが、今となっては否定的な見解が多数を占めている。
【主要参考文献】
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書)。