【深掘り「鎌倉殿の13人」】ついに源頼朝がキレた!弟・義経の失態の数々とは
7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、今回は源義経が犯した失態を考えることにしよう。
■源義経の無断任官
寿永3年(1183)2月、源義経・範頼は一ノ谷の戦いで平家に勝利し、屋島へと放逐した。平家は落ち目だったので、義経らが勝利したのは当然だった。
寿永4年(1184)5月、頼朝は一族の者を国司に任じることなどを朝廷に要望した。その結果、範頼は三河守、平賀義信が武蔵守、源広綱が駿河守に任じられたが、義経は任官されなかった。
木曽義仲が討たれたあと、京都市中の警固を担当したのが義経だった。この頃、梶原景時は、頼朝に義経の讒言を行っていたという(『平家物語』)。頼朝も義経を警戒していた。
この状況下で義経は、ついにやらかした。同年8月、義経は頼朝に断ることなく、後白河の意思により、検非違使、左衛門尉に任じられたのである。頼朝は同じ源氏一門や兄弟でさえも、無断で朝廷から官職を受けることを禁止したが、義経はその禁を破ったのだ。
義経は「法皇の意思によるもので、固辞を許されずお受けしたまで」と弁解したが、頼朝は激怒した。同年9月、義経は従五位下に叙され、10月には院の昇殿を許可された。義経は晴れやかな拝賀の式に晴れがましかったもしれないが、頼朝の怒りは収まらなかっただろう。
■梶原景時との逆櫓論争
頼朝は、弟の義経が無断で官位を受けたので、非常に立腹していた。平家追討を弟の範頼に命じたのはそれゆえであるが、範頼は兵糧不足、兵船不足で悩まされ、苦戦を強いられていた。
業を煮やした頼朝は、止む無く義経に平家追討を命じた。元暦2年(1185)2月10日、義経は京都を発ち、平家のいる屋島へと向かった。軍奉行を務めたのは、梶原景時である。義経は熊野水軍、伊予水軍、摂津渡辺党を味方とし、万全の体制を築き上げていた。
義経は摂津渡辺で軍議を催し、景時らと今後の作戦を協議した。『平家物語』によると、景時は逆櫓を取り付け、船がバックできるようにしてはどうかと提案した
しかし、義経は「逆櫓を付けると、兵が退きたがる」と反対した。これに対して景時は、「進むだけで、引くことを知らない武者は猪武者である」と強く反論した。
義経は「最初から逃げる準備をしていては、勝てる戦にも勝てない。それならば猪武者で結構だ」と言い放ち、逆櫓の取り付けを採用しなかった。このときの遺恨により、景時は頼朝に義経の讒言を行い、陥れたという。
近年の研究によると、景時は義経と行動をともにしておらず、範頼に帯同していたと指摘されている。したがって、義経と景時の逆櫓論争は、虚構である可能性が高いといわれている。
■まとめ
後者の「逆櫓論争」は虚構である可能性が高いが、前者の義経の無断任官は、頼朝の機嫌を大いに損ねることになった。頼朝はたとえ弟であっても、秩序を維持すべく臣従を強要した。義経はまだ若く、そのあたりの空気が読めなかったということになろう。