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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が将軍になると、梶原景時が有利になった理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
梶原景時を演じる中村獅童さん。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝死後の混乱が描かれていた。今回は源頼家が将軍になると、梶原景時が有利になった理由について、詳しく掘り下げてみよう。

■梶原景時と源頼朝

 治承4年(1180)、頼朝は「打倒平氏」の兵を挙げたが、石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れた。その際、景時は頼朝の居場所を知っていたが、あえて知らせなかったという。その後、景時は頼朝の配下となり、重用されることになった。

 景時が「一ノ郎党」、「鎌倉ノ本体ノ武士」と呼ばれたのは、頼朝の信頼が厚かった証拠だろう。一方で、景時の評判は散々なものであり、多くの武将を密告や讒言で陥れたという。

 景時は源義経(頼朝の弟)とともに、平氏追討のため西国に派遣された。元暦元年(1185)の屋島の戦いで、景時は船に逆櫓を付けるべきであると提案した。逆櫓とは、船を前後に漕ぐことができるように取り付ける櫓のことだ。

 義経は景時の提案に反対したので、両者は激しい口論となった。結局、義経は平氏が陣を置く屋島を奇襲し、あっという間に勝利した。景時が屋島に着いたのは、戦いの終わったあとだったので、大恥をかいたといわれている。

 しかし、このとき景時は義経でなく、源範頼に従っていたので、逆櫓の逸話は誤りとされている。

 同年の壇ノ浦の戦いで、景時は先陣を希望したが、義経は自身が先陣を務めると述べた。ここでも両者は口論となり、一触即発の事態となった。その後、景時は鎌倉の頼朝に戦況を知らせた際、義経が非常に傲慢であることを報告し、一刻も早く関東に帰りたいと述べた。

 このことが、頼朝の義経に対する心証を悪くしたという。一説によると、義経が頼朝に討たれたのは、景時の讒言が理由であったといわれている。

■景時の立場

 景時には悪い噂が付き物であるが、それが史実か否かはにわかに断定できない。

 景時は、鎌倉幕府で侍所所司(次官)などの要職についたのだから、頼朝から重用されたのは事実である。その後、景時は和田義盛に代わって、侍所別当(長官)に任じられた。

 景時にとって重要だったのは、頼朝の嫡男・頼家が誕生した際、景時の妻が乳母を務めたことである(乳母はほかに比企能員の妻など)。乳母は養育した子が成人したあとも、大きな影響力を持ったのだから、景時にとっては非常に喜ばしいことだった。

 同時に景時は、能員とともに頼家の政治的な後見人となった。頼朝は自分の死後、カリスマ性が乏しい頼家の行く末を案じていた。すでに、舅の時政ら北条一族がいたものの、さらに有力な御家人のサポートがあったほうが良いと考えたのだろう。

 建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、後継者の選定をめぐって暗雲が垂れ込めた。景時と能員は、当然頼家が次の将軍になることを望んだ。それは、2人の幕府内における地位が上昇するのだから、むしろ当然のことだった。

■むすび

 景時と言えば悪いイメージしかないが、それは後世に創作された可能性が高い。実際は才覚をもって頼朝から登用され、幕府では高い地位に就いた。そんな景時だったので、将来を見据えて頼家を次の将軍にと考えたのは、ごく普通の考え方だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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