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【戦国こぼれ話】忍城の水攻めで奮闘した甲斐姫とは、いかなる女性だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
忍城御三階櫓とあずま橋。(写真:イメージマート)

 6月26日、埼玉県行田市で催された「忍城おもてなし甲冑隊」で、「一日甲斐姫」が行田市の魅力をアピールした。さて、甲斐姫とはいかなる女性なのか、その点を深掘りしてみよう。

■甲斐姫のこと

 甲斐姫は、父・成田氏長、母・横瀬成繁の長女として誕生した(生年不詳)。当時、19歳だった甲斐姫は才色兼備の美女で、男子ならば世継ぎにふさわしい人物だったという。

 また、母が違う次女の巻姫、三女の敦姫の面倒をよく見ており、継母とも仲がよかったと伝わる。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の派遣した大軍が、小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏を攻撃した(小田原攻め)。それに伴い、北条氏に従う関東諸城も攻撃の対象となった。その一つが成田氏長の居城である忍城(埼玉県行田市)だった。

 忍城は周辺が沼地となっており、城が沼に浮いているように見えたので、浮城と呼ばれていた。その忍城を守備したのが、氏長の後室と三姉妹そしてわずか数百人の侍たちだったといわれている。

 忍城の攻撃を担当したのは、石田三成である。三成は忍城が沼地に囲まれていることを利用して、水攻めを敢行するが、作戦は失敗に終わった。

 近年の研究によると、忍城の水攻めは三成の本意ではなく、秀吉に強制された戦い方だったと指摘されている。

■甲斐姫の奮闘

 三成は無理な攻撃を続けたが、甲斐姫は成田家伝来の名刀「浪切」を振りかざし、敵陣に深く切り込むと、敵兵を次々と打ち倒したという。

 甲斐姫の戦いぶりは味方を鼓舞し、敵をも恐怖に陥れた。しかし、甲斐姫らの健闘も空しく、小田原城の北条氏は降伏。忍城の成田氏も、秀吉の軍門に降ったのである。

 忍城は開城され、成田氏長をはじめ継母、甲斐姫以下の三姉妹は馬にまたがって城をあとにした。その後ろには、侍衆以下、百姓や町人らも従ったが、善戦したことに胸を張って城を出たという。戦いには敗北したが、成田軍は誇らしげであった。

 氏長に対する処分は寛大なもので、蒲生氏郷の家臣となり、烏山に2万7千石を与えられた。秀吉に逆らったとはいえ、破格の扱いだったといえよう。しかし、問題は甲斐姫の処遇だった。

 秀吉は女性に目がないといわれており、甲斐姫の美しい容貌にたちまち目を奪われたという。案の定、甲斐姫は秀吉の側室になることを強要されたと伝わる。おそらく、成田一族の処遇と引き換えだったのであろう。

■むすび

 その後の甲斐姫の動静は、あまり詳しくわかっておらず、慶長3年(1598)までその姿を確認することができる。一方の成田氏は江戸初期に断絶したので、せっかくの甲斐姫の努力は水泡に帰したといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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