大河ドラマ「鎌倉殿の13人」25回目では、源頼朝が落馬して死んでしまった。そのきっかけとなったのが、相模川に架けられた橋なのだが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝の死

 建久9年(1198)12月、源頼朝は相模川に架けられた橋供養に参列したのちの帰途、落馬した。翌年1月13日、頼朝はそのときの怪我が原因で亡くなった。享年53。なお、頼朝の死因については諸説あるので、こちらもご参照いただきたい。

 ところで、相模川の橋とは、稲毛重成が亡き妻(北条時政の娘)の供養のために架けた橋だった。頼朝からすれば、妻・政子の妹の供養のことだったので、参列せざるを得なかったのだろう。

 重成は妻の死後、出家して道全と名乗った(稲毛入道、小沢入道とも)。その後、重成は相模川近くに住んでいたが、川を渡る船が転覆し、死者が出ることに心を痛めていた、重成は妻だけでなく、そうした人々の供養の意味を込めて、相模川に橋を架けたといわれている。

■実際にあった橋

 実は、重成が架けた橋は、約100年前に発見されていた。

 重成が架けた橋は、旧相模川橋脚(神奈川県茅ヶ崎市)と称され、国の天然記念物および史跡に指定された。数少ない中世の遺構としても貴重である。

 発見のきっかけは、大正12年(1923)9月の関東大震災、そして翌年の余震である。思いがけないことに、水田から地震の影響で橋杭が出現したのである。

 当時、歴史学者、紋章学者として知られていた沼田頼輔は、その詳細を文献などに基づき検証した。その結果、出現した橋脚は、ここまで述べた重成が架けた橋であると結論付けたのである。

 研究の成果を受けて、大正15年(1926)に旧相模川橋脚は国の史跡に指定された。その後も調査は続けられ、確認できた遺構の一部も追加で指定されている。

■まとめ

 頼朝の死因が落馬であったか否かは、いまだに議論はあるが、少なくとも橋があったのは事実である。なお、旧相模川橋脚が天然記念物に指定されたのは、平成24年(2012)のことである。